道徳教育/邪宗門(2)

現政権が道徳教育に力を入れる傾向に危険を感じる。現政権は、道徳を「特別の教科」とする方つもりのようだ。「特別の教科」とはどんなものかよく知らないが、力を入れていることに間違いないだろう。

現政権に限らず、政治が教育のことに口出しするのは、胡散臭い。その時の政権の正当性を子どもに教え込もうとする可能性がある。子ども達を特定の考えに導くのは、マスコミを抑え込もうとするよりも簡単だ。
政治とは、権力行為である。権力の行為の正当性は、国民多数の意志がそれを支持したからである。しかし、多数が正しいとは限らない。何が正しいかは、多数決では決まらない。何が正しいかは簡単には決まらないだろうが、少なくともある権威が一方的にこうだと決めるものではない。いろんな考えのぶつかり合いから、より正しいものがきまると思う。子どもたちは将来の主権者である。彼らがどのような考えを選ぶかは、彼らの自由である。大人は彼らに判断材料を与えるだけの存在だと思う。

今日(11.6)の朝日新聞の声欄に女子高校生の投書が載っていた。小学校三年の時の道徳で、先生の考えの押しつけがあったことを指摘していた。「売れないマジシャンが大きな仕事を断り、先に約束をしていた子どもにマジックを見せに行く」という題材で、どちらをとるか聞かれた彼女は、「子どもをとります」、と答えたそうだ。すると先生は怒ったような声で「本当にそうしますか」と聞く。次の生徒が「仕事をとる」と答えると「正直でよろしい」と言ったそうだ。
これはまずい。それぞれの勝手だろう。それぞれの選択でいいのは当然だ。どちらが正しいなんていえない。権力や多数や権威者が決めることじゃない。ただ、どちらが正しいかを話し合う価値は大いにある。ある行動は、どういう考えのものかを理解し合うことはとても大事だ。イスラム国の連中の主張だって知らなきゃいけない。在特会の主張もどんなもんか知らないといけない。韓国の従軍慰安婦についての主張も知らないといけない。たとえそれを否定するにしても。

高橋和己「邪宗門」の大きな特徴は、いろんな考えかたの対立を深く描いているということである。戦前の日本国家と「ひのもと救霊会」の考えの対立、「救霊会」とキリスト教共産主義勢力や既成仏教の考えの対立、戦後の革命について「救霊会」と左翼思想の対立、・・・。全編が問答集のような小説だ。一人の心の葛藤も克明に描いている。

その中で、一番私が興味をひかれるのは、戦後追いつめられた「救霊会」が武装闘争を決断する時の対立である。
肯定派=千葉潔・行徳阿礼・足利正と否定派=吉田秀夫・行徳阿貴・松葉幸太郎の対立である。千葉と吉田は旧制三高ボート部以来の友人、阿礼と阿貴は姉妹、足利正と松葉幸太郎は志操堅固の宗教人である。いずれも互いに信頼を寄せ合うペアである。この六人とも互いに信頼し合う仲間である。いずれの人も自分の利益で動く人たちではない。こんな人々が、米占領軍・日本政府と武装闘争に入る。

高橋和己は、一つの思想・行動に対して別な思想・行動をぶつけている。だからこそ深みがある。だからこそ感動がある。だからこそ納得させられる。

我々もまた自分と違う考えを知らなければならない。自分と違う考えを「見解の相違」なんて簡単に切り捨てちゃいけない。
とは言うものの、それは難しいけどね。

朝日新聞の投書に出てきた先生は、「子どもをとります」と言う投書主に「それじゃ、お金もらえなくていいの」と問うべきだし、
「仕事をとる」という子に対しては、「子どもが泣いていいの」と問うべきだ。子ども達がどちらをとるにしても、より深い考えのもとに行動するだろう。自分と違う行動をする人の気持ちもわかるだろう。それが先生の役目なんだと思う。それ以上じゃ決してない。
勿論知識の伝授と言う点では別と思うが。

「見解の相違」なんて簡単に切り捨てる首相を持つ政権は、教育なんぞに口出しするな。そんな資格はない。