運命共同体としての国家/日本国憲法前文/邪宗門(5)

>以下ネタばれですみません<
弾圧されたひのもと救霊会から、九州地区が、国家主義の宗教集団として、分離独立する。皇国救世軍である。その軍父(中心人物)小窪徳忠(元救霊会九州地区司祭)と救霊会教主行徳仁二郎は、公開討論会に臨む。息詰まる真剣勝負である。この小説のメインテーマの一つである。その討論は、結局は、国家と宗教の衝突に行きつく。
軍父小窪徳忠は、開祖まさの思想を批判して言う。
>「国には国の道、我らには我らの道と開祖まさは言っておりますけれども、その道がもし皇国の将来に対して全く無責任であろうとするなら、宗教人であると同時に日本人であるものとして、それを非難せざるを得ないのであります。・・・このアジアの現状にあって、神の子としての日本人の今なすべきことは、女性的な厭戦の思想から平和を唱え、強者におこぼれを乞うことでなく・・・」
「・・・ひのもと救霊会のように、いたずらに女性的忍従を説くだけでは、何一つ問題は解決しないのみならず、やがては、身を滅ぼし国を滅ぼす悲運を自ら招くのであります。
・・・」<
徳仁二郎は、言う。>「なるほど開祖まさは女性であり、・・・女性の思想と言うべきもの特質を濃厚にもっているかもしれません。・・・男たちのいわゆる思想、つまりは支配のための思想が虚偽に満ちたものだからである。・・・不具に生まれたわが子に注ぐ愛
は、全世界を睥睨する君主の仁政よりもなお、神の心に近い。・・・政治はその本質において、治めるものと治められる者とからなり、しかも、治める者が辛苦して働き、治める者が治められる者に養われながら、しかも権力を行使するものである。かかるものは、一片の正義を与えてはならぬ」「弁士中止」<・・・・・
窪徳忠「宗教は誓約共同体にて、国家は運命共同体。自らが自らの運命を進んで担うことなくして運命の開けることもなく、運命の開けることもなき誓約に何の意味ありや。共に苦しみともに泣き、ともに誓約するは、全てのより大いなる共同体のためならずや」
徳仁二郎「国家は、その版図内の民に対して、その国民たるを欲すると欲せざるにかかわらず、義務を課し租庸調を徴収し、生殺与奪の権を握る。・・・その運命は人為的、強制的運命であり、我らの宗教の自覚回心による入信と誓約より、明らかに下位。・・・現在において、尚国家が運命共同体であることは認めるにしても、その運命は、我々の使命とは相いれず・・・」「弁士中止」<


長々と引用しました。
開祖まさの「国には国の掟(道)、我らには我らの道」は、強烈です。戦前にこれを貫くことのいかに難しいか、想像がつきます。日本国憲法のもと思想良心の自由の保障された今でも、何かの集会で「国歌を歌います。御起立ください」と放送があって、皆が立つとき、一人座っているのは、なかなかきついものがあります。
さて、国家と宗教どちらが上か?小窪は、国民の運命も国家によって左右される故、個人も集団も、国家の運命に奉仕せよという。行徳は言う。国家は、各人が自覚して作ったものでなく、(つまり作ろうとして作ったのでなく)、作ろうとして作った宗教団体より下位の存在だという。難問です。行徳も認めるように、国家によって国民の運命は左右される、国家は、今も運命共同体です。
この難問を解くカギは、日本国憲法の前文にあると思います。日本国憲法前文冒頭第一文は、「日本国民は、・・・この憲法を確定する」とあります。憲法に忠実に政治が行われれば、次のように言えると思います。日本国は、誓約団体でありかつ運命共同体であると。西洋的知識で言えば、日本国憲法成立後の日本国は、社会契約説で出来た国家と言うことになると思います。我々が作った国と言えると思います。ただし、国民の意思がちゃんと反映されていればですが。
これに反して、2012年に作られた自由民主党憲法時改正案冒頭は、「日本国は、・・・統治される」とあります。誰がそんな中味を決めたのかを明示していません。つまり国家が国民より先にあるという考えです。いかに自民党改正案は、民主主義的言葉を連ねても、民主主義を嫌うものです。この一点からだけで、私は、自民党を軽蔑し、絶対投票はしません。自民党の考えでは、運命共同体と各種の誓約共同体の対立と言う不幸が生じるからです。仮想宗教団体とは言え、優しく誠実な「ひのもと救霊会」の人々の、ひどい不幸とついには自殺を肯定せざるを得ないる運命をもたらすと思うからです。