死ねばすぐ仏となる(柳美里「JR上野駅公園口」感想文②)

以下は、この小説に出てくる宗派の考え方の紹介とそれに関連しての私の感想です。その宗派とは、浄土真宗です。私は専門家でもありませんし、詳しいわけでもありません。間違っていたらご容赦ください。宗派の教義についての感想とそれに触発された連想を述べます。大した中味はありません。

 

小説「JR上野駅公園口」の主人公の男の実家は、浄土真宗です。この男の長男が21歳でこれからという時に死去します。その時の葬儀の様子が、詳しく述べられます。この小説には、男やその家族の哀切な気持ちが実に見事に描かれます。しかし、それには触れません。

 

10月上旬、義母の葬儀がありましたが、曹洞宗で執り行われました。私の家も曹洞宗です。

この男の浄土真宗(以下真宗)の葬儀とずいぶんと違います。

 

話すのは、この男の父親です。

「(曹洞宗などでは)亡くなったら六文銭、杖、草鞋をお棺に入れて、経帷子を着せて冥土の旅支度させるが、真宗では亡くなると同時にお浄土に往生して仏さまになるから、白衣を着せるだけ」

「死ぬのは穢れではないから、忌中の札もはらないしお清めの塩も使わない」

真宗では、大安・友引・仏滅などの日を気にしない」

「仏壇に位牌は置かないで、法名過去帳を置くだけ。真宗には神棚はない」

 

うーん、随分我が家と違うなあ。浄土真宗を知らなかった。真宗で、一番なるほどと納得したのは、次のことです。

 

「迎え火を焚くなんて変だ。仏さまに生まれ変わったお方が目印がないとかえって来れないなんて馬鹿な話はない。お盆の一週間しか帰ってこないなんて変だ。仏さまになったお方は、年中おらたちを守ってくださる」・・・歌「千の風になって」と似た発想です。

 

うーん、こっちの方が理屈に合っているな。俺改宗するかな。しかし、すべてを取り仕切る阿弥陀如来という仏を俺は想定できない。だから本気で南無阿弥陀仏とは唱えられない。・・・真宗は無理だな。

 

ところで、義母の葬儀は、曹洞宗で執り行われましたが、義母の実家は真宗です。もし、義母が離婚して実家に帰っていれば、真宗方式のはずです。現在の戒名は、○○院○○〇大姉ですが、真宗ですと、法名「釈〇〇」です。ずいぶん違います。・・・実にいい加減だな。

 

これが、イスラム教・キリスト教ヒンズー教ユダヤ教・・・・ですと、また違うでしょう。同じキリスト教でも、各派により考え方も儀式も大きく違うでしょう。だからこそ激烈な宗教戦争が起こったのでしょう。

 

しかし何故宗教上での戦争なんて起こるのでしょう。宗教の考え方は様々で、いい加減なものです。曹洞宗真宗の違いのように、考え方・儀式なんて様々で、どれが正しいなんて言えないでしょう。本気で争う必要がどこにありましょうか?私が日本人で宗教的寛容性が大きいからそう思うのかな。

 

世俗的な頭の私は、この現世での誰かと誰かの土地・金・財産・権力・・・の奪い合いが宗教戦争の本質なのでは、と想像します。(自信は全くありません)

 

 

私は、オウム真理教統一教会の教義をよく知りません。しかし信者は、いずれも教祖とよばれる人の言い分を正しいと思って信仰するのでしょう。

 

ある人の言うことを正しいと思って、信じて行動するという点では、キリスト教イスラム教も仏教もオウム真理教統一教会も同じに見えます。同様に、マルクスの言うことが正しい、サルトルの言うことが正しい、毛沢東の言うことが正しい、カントの言うことが正しい、ケインズの言うことが正しい・・・、あるいは、誰かに「教祖(あるいは、思想家・学者)はこう言っているけど、それはこういう意味です」と説明されて、それを正しいと思う、という事もあります。

 

ある宗教や思想や学説には、すべての人を納得させる真理はなく、すべてを説明する力もなく、たいていの場合、それを否定する宗教・思想・学説があります。 

 

私は、絶対的に正しい事ってないんじゃないかなと感じています。正しいと思うのは、思い込みなんじゃないかな。いや、絶対的に正しいという事はあるけど、簡単にはわからないんじゃないかなと思うんです。

 

オウム真理教を信じて犯罪に走った人、統一教会を信じて犯罪に走ったり、財産を失い家庭を崩壊させた人は、思い込みの強い人、信じやすい人なのでしょうね。別な宗教の話しも、聞いてみたらよかったのに。

 

反日を教義の一つとするらしい統一教会を応援し、応援してもらった安倍晋三以下の自民党政治家っていったい何だろう。統一教会を信じてるなら、あるいは信じなくとも応援するなら、自民党は、反日なのか。国民が他国の宗教に異常に貢ぐことを良しとするのか、それは日本国の権力を握る政治家としておかしいだろう。

霊感商法という犯罪も見逃して応援し、応援してもらうって何だ?たーだ、票が欲しいだけなのだろう。

これらは皆欲たかりなんだろうな(欲たかりとは、こちらの方言で「自分の欲に目がくらんでそれを行動の原理とする人」を蔑んで言う言葉。欲にたかられている。用例:毛虫にたかられている=毛虫にくっつかれている)

 

 

以下は、題から大きく離れて、私が人生で最も興味を惹かれた小説「邪宗門」に関連して、私の脳内妄想を書きますので、またか、と思う人は読まないでください。またか、そのものなんです。

 

 

私が最初に宗教に関心を持った小説「邪宗門」の「ひのもと救霊会」は、高橋和巳の創作でした。その教義と行動は、私にとって素晴らしいと思えるものでした。真の自由・自立・相互扶助・平等・無搾取・弱者全員救済・平和。しかし、それを本気で追求したがゆえに、戦前は大日本帝国の権力に、戦後は、GHQ=日本国権力に弾圧され、絶望的武力闘争に踏み切ります。国家権力に挑む宗教は、邪宗とみなされます。武力闘争は犯罪です。しかし、私には、この宗派を邪宗とは思えず、武力闘争も犯罪とは思えないのでした。却って国家権力こそ、邪宗の組織あるいは犯罪組織じゃないかと疑ることになりました。勿論武力闘争に踏み切る時、宗派内で厳しい論争がありました。千葉潔と吉田秀夫の論争が代表的です。

 

参考の為過去記事を挙げます。

 

a0153.hatenablog.com

 

 

尤も、高橋和巳の創作した、現実には存在しない宗教故安心して私は、入信?したのでしょう。

 

 

高橋和巳は、1960年代後半、当時学生の間にある程度勢力のあった全共闘を支持しました。全共闘武装闘争を辞さない考えでした。私は、大学生でした。国家権力に武装闘争なんて馬鹿げていると思いました。警察・自衛隊に武力で勝てるわけないと思いました。全共闘の連中は、遊びじゃないか、と思いました。「若気の至り」とかて言って、ちゃっかり社会的地位を築くのでは、なんて思ってました。(一方私は、彼らが(少数の人しか知りませんが、)とてもまじめだったと知ってます。)

 

私は、真面目が正しいとは限らないのではとも思ってます。真面目や正しいは、また幸不幸に関係ないとも感じます。

 

私は、職業を持って家庭を営んで、そんな社会生活の中で、自由・平等・自立・全弱者救済・相互扶助を追求すべきと思いました。現実には、労働組合に依拠して行動しようと思いました。千葉と吉田の論争では、吉田を取ったという事でしょう。なんと言っても、私たちは、日本国憲法という強力な武器を持っていると思いました。

 

さて50年後の現在、振り返りますと、自由・平等・自立・全弱者救済・相互扶助等は、極めて不十分です。日本国憲法という強力な武器を持ちながら、われらは、国家権力に半分以上敗れたと思っています。惨敗とも思ってませんけど、そして終わったとも思ってませんけど。