自殺幇助に罰をあたえることは正義か・新事件「わが歌ははないちもんめ」を見て思ったこと

こんな題にしましたが、「本当のやさしさとはどういうことか」とか、「真実が言葉を復活させる」とか、「現代の姥捨て山」とか、いろんな題が頭を去来しました。

拙ブログは、公開でして、皆さんに読んでもらうように書くべきなのでしょうけど、この「新・事件・わが歌ははないちもんめ」についての感想は、このドラマを見た人だけしか分からないようなものになります。(あらすじなどを詳しく説明するのが、面倒なんです)そして、今後も何べんか見ることになると思います。そのたび感想は、変わるでしょうけど、それを書くかどうかはわかりません。このブログは、私個人の備忘です。それでも、受けた衝撃・感動は、どなたかに話したいなあ、と思います。どなたかの感想も聞きたいと思います。


言う価値のないことを述べました。

一 自殺ほう助に罰を与えるのは、正義か
原田昭一(本名佐野某、高峰ケーシー)は、売春婦、君原けいこ(本名 宮口トミ子、樫山文江)を連れ込みホテルで殺す。トミ子に頼まれて殺す。トミ子は、水郷の嫁ぎ先で、義母ウメ(鈴木光枝)の自殺の手伝いをする。

ウメは、足腰が立たなくなって、「迷惑をかけるので死なせてくれ」、と、いつも言う。トミ子は、それをとうとう聞いてやる。ウメは、川舟を自分でこいで湖へ出るとき「ありがとな、トミ子さん」と言って、暗闇の中へ消えていく。
ウメが死にたい、というのは、「家族に迷惑をかけたくない」という優しさである。トミ子が背負って、ウメを舟へ連れて行くのも、優しさである。しかし、その行為によって家庭は崩壊し、トミ子は家出して、売春婦となる。生活にくたびれたトミ子は、「殺してくれ」と佐野に頼む。佐野の殺人も、優しさではないか。佐野もまた死のうと思ってた。彼も出稼ぎの仕事でけがをし、農業では働けない体となり、故郷に帰れず死を望んでいた。死刑になれば死ねるという動機もあった。ウメ、トミ子、佐野には、人を思うやさしさの連鎖がある。しかし判決は、佐野を自殺ほう助の罪で懲役三年とした。

国家は、あるいは社会全体は、なぜ自殺ほう助を罪としているのか。

自殺ほう助を罪でないとすると、自殺ほう助を装った殺人が行われる可能性は高まる。これは問題なしに犯罪である。また自殺が増えることも考えられる。しかし自殺は、国家や社会の認定する犯罪ではない。自殺ほう助は、なぜ刑法の犯罪なのか。・・・分からん。

自殺の意思が明確な場合、それでもそれを助けると犯罪となる。なぜか。
ウメは言う。「死ぬときぐらい、自分の好きにできんのかのう。トミ子さん、私が今まで自分の好き勝手を言ったことが一度でもあったかい」ウメには、わがままなど一切なかったのだと確信する。それでも、そんな人を助けて自殺の手伝いをするのは犯罪となる。なぜか。・・・うーん、分からない。
私はどうか。そんな場面で、私も自殺の手伝いはしないだろう。罰が怖いわけじゃない。なぜか、うーん。人は死ぬまで生きるべきと思うからだろう。道徳からなんだろう。しかし、私は優しい人間といえるか?うーん、優しくないのではないかと思う。

ヒロミは、母を殺した佐野を、このように言う。「おばあちゃんの頼みを聞いてくれたお母ちゃんのように優しい人じゃっった」。
森鴎外高瀬舟」では、どうにも生きる手立てがなく、命も助からない場面で、弟を安楽死させた主人公は、遠島という罰を受ける。しかし、その顏には微笑みが見えたという描写があった。優しさとはなんだ。正義とは何だ。国家や社会全体の言う正義と違う正義があるのではないか。

安楽死の手助けをするのは、現在でも犯罪である。しかし、それは正しいか。世界ではそれを認めている国家や地域がある。純粋に安楽死が成立する場合、それを助けた人を処罰する、道徳以外の論理はあるのか。・・・分からない。ないのじゃないかと思うが、分からない。

尊厳死は、現在ほぼ公認だと思う。尊厳死安楽死の違いは、どこにあるか。

ウメは、優しい人間か?優しくないんじゃないか。残されたもの、自殺ほう助したものの、こころの重い負担、刑罰の可能性を考えれば、自殺するのは、他を考えてないことではないか?優しくないのではないか。いや、生活がひっ迫している家族においては、そんなことは考えられないのじゃないか?私の心は乱れます。

二 言葉とは何だ母トミ子と一緒に祖母ウメの自殺行を見送った小5のヒロミは、しゃべらなくなる。ウメが「ヒロミ、誰にも言うんでねえぞ」と言った言葉が、ヒロミの心を圧殺する。祖母が死ぬのは嫌だ、でも死にたいと言っている、母もそれを認めた、父に助けをもとめるが、父もウメの死を認める。そんな状況で、祖母に、上のように言われて、ヒロミは言葉を失う。

彼女が言葉を取り戻すのは、父が裁判で最後にほんとのことを言うからだ。父が、ウメを見殺しにした=自分が自殺を認めたという真実を言うことにより、ヒロミは、言葉を取り戻す。あの場面で私は、滂沱の涙を禁じ得ない。裁判長の静止を振り切り、父は、ヒロミに言う。「俺がほんとのこと=ウメの見殺しを言ったんだから、もう知ってること全部言っていいんだぞ。ヒロミ。」。ヒロミは「本当です」と、実に5年ぶりに言葉を発する。・・涙があふれる場面である。大いなる救いである。

言葉は、真実に触れたとき、生きるのだと思う。輝きがあるのだと思う。真実の言葉は、人を救うのだと思う。人をだます言葉、ごまかす言葉、人を陥れる言葉、自分の利益のための言葉の氾濫が、うとましい。ましてや、自分ファーストを公言するなんて、それが正義だなんて、嫌気がさす。そうだ、ウメもトミ子も佐野も自分ファーストと対極にある人物たちだ。

三 現代の「姥捨て山」ウメは、自分から進んで死に行く。家族に迷惑がかかるからである。それは、昔からあった行動パターンなんだと思う。行動までいかなくとも、心の動きなんだと思う。それが、戦後の日本にも生きていたんだと思う。ドラマを見ていて、ウメの行動を、異常な行動とは思わなかった。私にも分かるのである。わが母は、認知症になる数年前「俺は、この家にいていいんだべか」といった。「畑でいつの間にか死んでいるといいな」とは、さんざん言っていた。ピンピンコロリ信仰が根強い。私もまたぽっくりと死にたいと思う。家族に迷惑をかけたくないというのは、普通の感情である。昔、いくらかは、親子合意の上、父母を山に捨てることがあったのだと思う。なかったとは言えないんじゃないか。ある状況では、どうにもならない、しょうがないことなのだろう。

現代でも、親の介護は、大変である。親の介護のため、共倒れになることもあると容易に想像できる。



現代では、介護保険制があり、家族だけで介護しなければならぬという状況は改善された。介護保険制度の導入時には、強い反対もあったが、これでどれほどの人たちが助かったことか。
ウメもトミ子も介護保険制度があったなら、こんな悲劇はなかったのじゃないか。介護保険制度、いいじゃないか。

介護施設は、現代の姥捨て山になっているという面も持つ。顔出しに来る人がいない入所者も多いと聞く。姥捨て山となっているとも思う。しかしそれはやむを得ないのじゃないか。「楢山節考」のように、寒空の下、山に父母を置いてくるわけじゃない。