人食いー古処誠二「ルール」を読んでー

今日は福島県知事選挙結果が出た日である。佐藤知事の後継者が当選したが、私は、県民の意思は投票率の低さに表れていると思っている。政治、特に政党への批判があったのではないかと思っている。
自民党中央が、負けないため、地元の自民党が推した候補者を引きずり降ろし、民主・社民の推す候補に相乗りしたことがすべてである。これで対立軸が不鮮明となった。民主が原発政策をはっきりさせず対立軸が不鮮明となり、安部政権の他の政策への賛否を問う選挙でなくなったのだからますます対立軸がなくなる。
県内の原発全廃では全候補が一致しているんだし、復興はだれがやっても大差なく、そして誰がやっても難しい。何で選べばいいんだい。俺は日本の原発全廃を言った元宮古市長に入れた・・・しかし対立軸ぐらい作れよな。
俺もしらけたが県民のかなりの部分がしらけたと思う。それがこの投票率の低さに表れていると思う。自公と民主・社民の対立になれば県民もも少し本気になれたような気がする。

つまらない気持ちを持て余しながら今日一日は、古処誠二「ルール」を読んで過ごした。人肉食の話である。素晴らしい小説と思った。相変わらず場面設定・人物設定は秀逸である。舞台は、終戦直前のフィリピン戦線、米軍に追いたてられた敗残日本兵は、密林へ逃げ込む。そこで起こる出来事を生き生きと描いている。戦争に敗れた軍隊の崩壊は、「接近」「遮断」「七月七日」でも描かれていた。
この「ルール」では、人肉食が描かれる。
飢餓に迫られた人間の最後は、人の肉を食うということに行きつく。食ってよいか悪いか、私は答えを持てない。死んだ人の肉を食う場合と人を殺して食う場合とで違うかもしれない。この小説では、どちらの人肉食も出てくる。生きている人を食う場合も二通りあるかもしれない。飢餓から狂ってしまい、人と動物と区別がつかなくなった場合と人と分かっていながら殺して食う場合と。
この小説には死肉を食う二人が出てくる。一人は「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながら自殺する。も一人は、、作品中で大活躍する軍曹である。飢餓状態で米軍やゲリラの攻撃から逃げる三人の逃避行の中で、彼は、頑健な体で他の二人を助け続ける。その秘密が最後に明かされる。彼は死人の人肉を食っていたのである。
ほぼ最後の場面で彼は、彼の部隊の責任者が私欲のため多くの部下を殺したことを知り、その上官に自決を迫る。
そして言う。「自分も後を追わせていただきます。中隊長殿」私はこの言葉に泣けた。何故だか泣けた。人の死肉を食って、人を助け、正義を貫いて上官を自決追いつめて、自分も死ぬ。ここには人肉食という不正義と人の正義がある。
日本軍は、何と言う無様な軍隊か?いや軍隊の本質とはこんなものだろう。ある状況では、いずれの軍隊もこんなものだろう。
それを鮮明にとらえることが俺の頭では出来ない。大日本帝国もまた同じであろう。いや国家とはこんなものじゃないのか?それを鮮明にとらえることも俺には出来ない。

人肉食では、同じフィリピン戦線を舞台にした大岡昇平「野火」を読んだことがある。主人公はあくまでも人間の道徳で生きていた。だからこそ精神が崩壊した。「ルール」では、肉を食いたいということで若い兵士の肩にかぶりつく狂気の敗残兵も描写される。こんなこともあったろうとおもう。いや飢餓の島では、これも普通にありえたような気がする。

私の愛読書である「邪宗門」にも人肉食が出てくる。飢餓の東北で、主人公は母の肉を食う。母は言う「私が死んだら私をお食べ。元々は一つの命なんだから、私をお食べ。」(原文に忠実ではない)これは母の絶対的な愛である。しかし、母を食った主人公は、自己破壊欲を持つ。それがありえなかった、そして作者高橋和巳があってほしいと望んだ戦後革命の一つの原動力となる。
邪宗門」「野火」、も一度読んでみよう。

駄文、容赦されよ。