「どちらでもない」に思う

沖縄県の「辺野古移設」県民投票は、結局、賛成・反対・どちらでもないの三択で、全県で実施されることになった。気になるのは、この「どちらでもない」である。

 

「どちらでもない」とはどういうことなのだろうか。違和感がある。

例えば挙手による多数決で決める場合、賛成・反対以外にどちらでもない=保留・棄権という選択肢がある。しかしこの投票の場合、棄権あるいは白紙投票という選択肢がある。棄権・白紙に輪をかけて「どちらでもない」を置く意味は何だろうか。

 

この県民投票で辺野古移転(あるいは中止)が決まるわけではない。この投票は、あることを決定する多数決ではない。この投票は、県民の意見をはっきりさせようという趣旨である。意見をはっきりさせる場合には、「賛成か反対か」しかないはずである。

 

棄権・白紙に輪をかけて「どちらでもない」という選択肢を置くのは、県民の意見をはっきりさせないためといえる。

 

当初沖縄県の投票方法には、賛成・反対の二択しかなかった。自民党の強い自治体の議会や長が県民投票に反対してストライキを起こし、とどのつまり「どちらでもない」を入れさせたという形である。

 

つまりは、沖縄自民党の大勢は、県民の意思をできるだけ明確にさせたくないのである。聞きたくないのである。県民の意思を明確にして、それにこたえるのが民主主義だろう。これは反民主主義といえる。

 

そういえば自民党の国会議員が、県民投票実施にブレーキをかけたのだった。中央政界でも自民党の作った内閣は、国民の意見を聞くという姿勢はない。そんな政府に唯々諾々としたがうのだから、なるほど自民党は、反民主主義の政党ではある。

 

 

さて投票で「どちらでもない」を選ぶ人は、どういう考えなのであろうか。

「政府が普天間から辺野古に米軍基地を移すため海を埋め立て」をすることに、賛成か反対かと問われている時、答えは賛成か反対しかないと思うが、「どちらでもない」とはどういうことなのだろうか。俺には解せない。

 

「賛成でも反対でもない」とは、推測すると、「政府にお任せ、お好きに」とも「他の人の意見にお任せ」とも「どちらでもよい」ともとれる。いずれでも「どちらでもない」を選ぶ人は、自分の考えを持たない人だろう。他人任せ、多数任せ、成り行き任せという人だろう。あるいは、その方が楽と考える人だろうと思う。

 

「どちらでもない」を選択肢に押し込む勢力は、つまり県民に自分の考えを持たせたくない勢力である。政府に任せろ、多数に従って生きろ、面倒なことは考えるなと言いたい勢力といえる。

 

 

 

「どちらでもない」という選択肢でなく、「わからない」という選択肢ではどうか。「わからない」ということはありうる。辺野古移転にはメリットもデメリットもある。それゆえ、「わからない」ということはある。

 

 

「わからない」という選択肢を入れた場合を考えてみよう。

当初案の賛否しかない場合、人は、分からない=いろいろ考え迷いながらも、賛否を決断する。その時には、話し合いもあるだろう。議論もあるだろう。対立する意見があって、それぞれ迷いながら、話し合ったり議論したりするのが民主主義のはず。話ができなくとも、懸命に自分で考えるだろう。個人がそれぞれ自分の頭で考え、できれば話し合ったりする、それが民主主義の基本だろう。

 

故に「どちらでもない」同様、「わからない」を入れるのは、やはり民主主義を軽んずることになる。

 

自分が沖縄県民だったら、「どちらでもない」より「わからない」があった方が、楽と思う。「わからない」を選ぶ誘惑もある。考えるのは面倒である。犯罪、ゴシップ、セックス、スポーツの話題の方が圧倒的に面白い。故に面倒なことは考えないので「分からない」となる可能性もある。

 

となると、賛否を明確にしたくない自民党や県民投票反対派は、「わからない」の方が良かったのじゃないか(笑)

 

 

人はいつでも、分からないながら判断して生きていく存在である。どこに就職するか。どちらと契約した方がよいか。友達でいるか、結婚するか。子供を産むか、産まないか。どこの学校に子供を入れるか。昼飯はラーメンか定食か。最初はビールか、めいめいか。

 

人が生きていく場合、分からないながらも選択して生きている。この選択には、「どちらでもない」は、ない。ラーメンか定食か食うだろう。子供は産むか産まないかどちらかだろう。この選択は必要に迫られるからである。

 

辺野古移転の問題は、必要に迫られない、そう考える人もいるだろう。辺野古移転の賛否では、自分の人生とかかわらないと判断する場合、「どちらでもない」を選ぶ人がいると想像する。

 

自治体選挙、あるいは国政選挙で棄権する人には、「自分の人生とかかわらない」と思ったり、「多数に従う」とか、「政府にお任せ」、「考えるのは面倒、楽に生きよう」と考える人たちが多いと想像する。(そのほかには「自分一人ではどうにもならない」とか「自分一人投票しなくたって誰かが」か)それじゃ、民主主義は、憲法条文に描(書)かれただけの、画餅である。

 

だとすれば、民主主義のためには、SPYBOYさんがいうように、「正当な理由なき棄権者には罰則(笑)」も必要かもね。必要に迫られて、自分のこととして考えるかもしれない。罰則は、最低賃金・残業付きの強制労働三日(笑)がいいかな。あ、これには慣れてるから効き目ないか(笑)