西部氏の自裁死から自民党憲法改正案を否定する

2月2日朝日新聞「異論のススメ」で、佐伯啓思氏が「西部さんの死は、自裁死で、この覚悟へと至らしめたものは、家族に介護上の面倒をかけたくない、という一点が大きい」と言っています。

ネットで、西部氏を検索したら、奥様の介護を8年間やっておられたようで、「家族に介護上の面倒をかけたくない」というのは、あったのかもしれません。

もしこれが本当なら、37年前のNHKドラマ「新事件 わが歌ははないちもんめ」のウメと同じ行動です。ウメは、下半身が不自由になります。ウメは、家族の経済や世話をするトミ子(嫁)の手間を考えて、死にたいと思います。「いや死ぬべきだ」と思ったのでしょう。トミ子は、ウメの願いを聞き入れ、ウメの自殺の手伝いをします。

私は、前のブログで、ウメやトミ子の時代と違い、現代では、介護保険制度があり、ウメやトミ子の悲劇はないと思ったのですが、西部氏の死を見ると、(当たり前のことですが、)介護保険制度も、すべてを解決するものではないと言えます。


西部氏は、ネットで見ますと、23年前から自殺ということを公言していたそうです。銃を手に入れようとしたこともあるようです。西部氏も、介護保険制度を使い、自宅で看取られることも可能だったでしょうし、病院でなくなることも可能だったでしょう。彼は、遺書を残し,入水という死を選択しました。


死に方は、その人の選択=生き方です。その死に方=生き方を、社会は保障すべきでしょう。自裁死もありでしょうし、家族に介護という面倒をかける死もあるでしょうし、施設での死もあるでしょう。

その人の好きな生き方=死に方ができるように、社会全体の制度設計をすべきです。尊厳死は勿論、安楽死も厳密な条件のもと、認められるべきと思います。家族に看取られて死にたいというのもかなえられるようにすべきです。家族に迷惑をかけたくない人の場合、あるいは家族のない人の場合、あるいは家族の仲が悪い場合、介護施設・病院での幸福な死が選択できるようすべきでしょう。

憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。・・・」
この「個人として尊重」には、自分の死を自分が選択できる、ということも含むと私は考えます。どの様な死を選択するかは、生き方の自由のうちです。

ところが自民党日本国憲法改正草案」は、「すべて国民は、人として尊重される」としています。人とした場合、人はこう生きるべきだという概念が付きまといます。人は、自然に死ぬまで生きるべきだ。人は、他のために生きるべきだ。人は他に迷惑をかけてはいけない、等々。私は、これらを否定はしません。ですが、これらは道徳律でして、強制力を持つべきではありません。憲法は、最強の強制力を持ちます。犯罪を犯さず、公共の福祉に反しない限り、個々人は、自由に生きる権利があります。

自民党の改正案は、家族について、第24条で「・・・家族は、互いに助け合わなければならない」という文言を追加しています。私は、家族間の助け合いに賛成です。しかしこれは、道徳律です。最強の強制力を持つ憲法に書くべきでありません。もしこのような文言を憲法に追加すれば、「介護は、家族で」という方向になる可能性があります。嫌いな家族同士が、介護をめぐっていがみ合いとか、介護離職とか、共倒れとかが起きる可能性を高めます。それは、国民の自由を狭めます。

自由民主党は、その名に反し、国民の自由を嫌うようです。自由に生きることが好きな人は、自民党を支持するべきではありません。