テリーの愛ー「ライムライト」を見て

ビデオにとってあったチャップリン「ライムライト」を見た。2回目である。
近頃忘れることが多くなったので、感想を書いておこうと思う。惹かれるのは圧倒的に
あのメロディである。そのほかの感想を書く。

(1)人は、他の人を助けようとすることで、自分も生きる力を得ると思った。
以下ネタばれ

チャップリン演ずるカルベロは、昔人気高かった喜劇芸人、今は落ちぶれた老芸人。生きる希望も自信もなくして酒びたり。
彼の前に、若い女性が現れる。テリーは、踊り子。自分が売春婦の姉を犠牲にして輝いているという自責の念から、踊れなくなり、ガス自殺を図る。その後は、自分の力だけでは、歩けなくなる。
自殺を助けたカルベロは、テリーが生きる力を取り戻すよう、踊りに復帰できるようよう力を尽くす。
テリーを動かそうとする言葉は、自分にも跳ね返ってくる。自分をも力づける。カルベロに一つのチャンスが訪れる。しかし彼は失敗する。
落ち込むカルベロを力づけようとするテリーは、思わず、歩み出す。彼女は叫ぶ「私、歩ける」と。そして踊り子として復活していく。

この場面がいいなあ。
人を助けようとすることが、自分の力にもなる。

私達も、他の人に役立つことで自分の生きる力を得ていると思う。家族がその典型だと思う。ボランテイアも同じ。私たちのスタンデイングだって、皆の役に立つと思うから、安保法制反対を訴えている。自分の直接の利益にはならない。勿論お金にもならない。下手すると、変人扱いだ。
政治家は、どうか。自分の利益のため、いろいろ言うんじゃないか。さも皆にいいことをやるような事を言って。こんな政治家(政治屋)への不信感も低投票率の一因だろう。

(2)芸人の執念

カルベロは、落ちぶれてはいるが、舞台で復活する夢を密かに持っている。そのため、カルベロという名まで棄てる。大道芸人になっても、お金を恵まれることで生活するようになっても、芸人としての復活を諦めない。ここに芸人の執念を見る。それと芸能界の厳しさを知る。

最後は、実力で観客の笑いを得る、これも執念だ。何べんも何べんもアンコールを要求される程の成功だ。カルベロの復活だ。しかし、彼は勢い余り、致命的けがをする。復活即、死である。劇的である。

(3)二人の愛

カルベロとテリーは、お互いを支えあい、愛し合う。
ところが、テリーは、踊り子として認められる場面で、以前恋した人に再会する。若い作曲家ネビルである。ネビルもテリーを愛していた。ネビルは、テリーに求婚する。しかしテリーは、結婚相手としてカルベロを選ぶ。求婚されたカルベロは、ネビルのテリーへの愛を知り、自分の老いを考え、落ちぶれた境涯を考え、テリーの前から姿を消す。

最後の場面でも、テりーは、老芸人カルベロを愛し続ける。
テリーの愛は、純粋で強い。ネビルはそれを憐れみだと言う。憐れみか。
テリーは、カルベロに感謝し彼を尊敬し、彼女の人生をかけて彼を支えたいと思っている。これを愛と言わなくして何と言うのだろう。

しかし、カルベロは、テリーと結婚しただろうか?最後の場面でも、テリーをネビルにゆずろうとしている。どうなるか。うーむ。この疑問への答えを、チャップリンは与えない。与えたのは、カルベロの死である。もし彼が生きていたらどうなったか。永遠の疑問。答えのない疑問。(生きていたら週刊誌ネタの醜聞か?純愛か?)

思えば、乙川優三郎の「ロゴスの市」の主人公たちの愛=不倫も、ヒロインの死で決着する。ヒロインが生きていたら、不倫の愛は、どうなったか?

復活し喝さいを浴びながら、死にゆくカルベロは、愛するテリーのダンスを、舞台のそでで見たいと思う。しかし、命が尽きる。これもまた劇的である。この場面で流れるのが、あの曲である。人の心を揺さぶるあのメロディーは、映画全編にちょっとずつ現れ、だんだんその姿をはっきりさせて来て、ラストで全開花し、終わる。カルベロの芸人魂と愛と同じように。
このブログの題目を間違えたか。カルベロの愛とすべきだったか。


多くの余韻を残し、名曲と映画は終わる。いいねえ。やはり傑作だ。