納得できる不倫もある-「ロゴスの市」を読んで

乙川優三郎「ロゴスの市」を読んだ。学生時代から惹かれあい、すれ違う男女の恋愛小説である。様々な感想を持った。いい小説であった。

(1)翻訳家(男)と同時通訳家(女)の仕事と苦労が良くわかった。そしてその違いも分かった気がした。どちらもすごいものだと思った。

英語は、その言語を使う人々の長い歴史・文化・思考方法、その他もろもろを背負っている。それを別な歴史・文化・思考方法を背負う日本語に直すと言うのが翻訳だとしたら、それは極めて難しいだろう。いや、日本語に直すと言うのは不正確。日本語であらわすと言う方が近い気がする。しかし、外国の文学を正確に表すのは、無理なんじゃないかとも思った。

同時通訳も難しい。瞬時にある人の思考・感情を別な言語の人に伝えると言うのだから大変だ。あらゆる分野の知識に通じてないと出来ない。それだけじゃない。それを瞬時に言葉に表すと言うのだから大変だ。どちらも言葉を大切にする。大切にするなんてものじゃないな。真実に迫るために苦闘するという感じかな。

私はちょい前、論争した広島でのオバマ大統領の演説を思った。私は、緊張して同時通訳を聞いていた。
そしてその感想を書いた。しかし、翻訳文も残っている。真面目に読めば別な感想も持つかもしれないと思った。英語そのもので読めれば、違う印象を持つかもしれないとも思った。まあ、「勝敗や謝罪の資格云々」以上に、「全ての人・民族・国家がルールに従うことを優先すべき」という私の考えに、あの演説は、添わないとは思う。

また、わが安倍首相の言葉を思った。彼は言葉を、騙しの道具にしていると思う。言葉への
誠実さがまったくない。あるいは思考力がない。いかに政治家が自分や自分の属する集団のために言葉を使うのは当然とはいえ、余りに言葉を馬鹿にしてはいないか、そう思った。

昨日安倍首相は、街頭演説で「安保法を廃止すれば、日米同盟は根底から覆される」と言ったそうだ。それが正しければ、安保法のなかった昨年までは、日米同盟は根底から覆っていた事になる。根底から覆っていた日米同盟の基に何十年もやってきたのか。

私もまた、こんなに多く(推敲もせず)ブログを書いて、言葉を大切にしていないなあと思った。ただ俺の場合、自分の利益のため人をだますものじゃないので、まあいいかとも思う。

(2)この小説に、向田邦子、芝木好子が出てくるが、読んでみたいと思った。どちらもまったく読んでいない。
また、この小説には、英文学の様々な作家が出てくるが、そう言えば、もうまったく外国文学に触れていない事に気づいた。高校生のころには、も少し読んでた気がする。ヘルマンヘッセとか。外国文学にも、豊かな世界が広がっているのだろう。読みたいと思った。

(3)乙川優三郎の描く男女は、何と言うかな、すっきりしてると言うか、凛としているというか、とにかくいいねえ。(俺はこの作中人物と違い、言葉を持たず、磨いてもいないなあ)「生きる」「脊梁山脈」は読んだ記憶がある。どちらも中味は忘れたけど、いいなあ、と思ったことは覚えている。

(4)納得できる不倫もあると思った。

悠子と弘之は、、20才の大学時代に出会い、二人とも英語に興味を持ち、互いに強く惹かれあう。弘之は翻訳家を、悠子は同時通訳を目指し、ライバルとして支え合う。二人はそれぞれの仕事に成功していくが、しかし、二人は結ばれない。二人の性格と悠子の家庭環境がその原因である。悠子は、養家の義兄と結婚する。その10年後、弘之は別な女性と結婚する。直後、悠子は離婚する。そして二人は年に一度、ドイツのフランクフルトや御宿で逢う生活をすることになる。いわゆる不倫である。しかし、私はこの二人が結ばれるのが自然と思わされた。自然な愛というものであろうと思う。勿論、この小説は、弘之の側から悠子への愛を描いているので、そう感じるのである。弘之の奥様から見れば、それは憎むべき不倫であろう。二人の愛は、悠子の飛行機事故死で、唐突に幕を閉じる。

今週刊誌やテレビのワイドショウでは、不倫してひたすら謝っている芸能人がいっぱいいる。私は、興味がない(ばかりじゃなくて、個人の不道徳なんかに、公共の電波を多く使うことが問題と思っている)ので、彼らの愛の態様を知らない。それらと悠子と弘之の愛が同じか違うか、それもわからない。しかし、芸能人たちの不倫は、どうも不真面目な気がする。一方、結婚という枠におさまらない自然な愛もあると思う。

夏目漱石「それから」の代助と三千代も自然な愛であった。藤沢周平「用心棒日月抄」の青江又八郎と佐知もまた自然な愛であった。私は彼らの愛を応援する。ゲーテのウエルテルとロッテはどうであったか。愛であったか?

社会制度や道徳と、自然な情愛の齟齬、これは、永遠のテーマではある。