近頃こんな歌の一節が浮かびます。
昨年8月に痛めた左足が1月以来、どうも疼くのです。11月や12月には、痛くなかったのに。
そのうえ悪いことに、2月16日早朝(震度6の地震から3日目)散歩の途中、左足が肉離れを起こしました。滑ったので転ばないよう思いっきり頑張ったせいです。やっとの思いで家に帰ってきました。
2月23日、整形外科を訪れ、見てもらいました。
医者「おかしいな、左足の骨折、今頃痛くなるのは変だ。」
私「寒くなって、前に痛めたところが痛くなるということはないですか」
医者「絶対ないとは言えないけどねえ。いったん治ったのだからね」
私「この肉離れが影響しているということはないですか」
医者「絶対ないとは言えないけど、まずないな」
結局、左足は腱鞘炎という診断で湿布薬をもらってきました。
「古傷が痛む」って良く言うじゃないですか。それだと思うんだがなあ。
「散歩こそわが命」の私にとって、足が痛いのは、・・痛い(笑)。距離を大きく減らし歩いていますが、まあ面白くありませんね。何せ、歩くと痛いから。
痛いといえば、家の傷も痛い。
10年前の東日本大震災で壊れた(当時半壊という判定)基礎・外壁・内側の日本壁・クロスが同じように壊れました。隣地が池なのが響いています。震災2年後に、5百万弱をかけて直したのですがねえ。同じような場所が同じように壊れました。
家も、古傷か痛いと泣いてるかもね。
さてどうしようか。5百万かけて直しても、また地震だとおなじことになります。
こうして、現家屋解体・新築が現実味を帯びてきました。しかし、ほんとに大ごとになってしまいました。若夫婦と真剣に話し合ってます。もし新築となれば、メーカー選定、間取り・外溝(隣が池が難関)・内装・装備の決定、ものの処分・移動、借家、借金の算段、いやー、大変です。
物の処分については、
昨年の義父と伯父の死、今年に入って弟の死と身近な人の死が続いて、自分の死も意識され、断捨離を本格的に考えていた所でした。
全集類(世界大百科・ライフの自然シリーズ・世界の大思想・柳田国男全集)は、処分できました。単行本・文庫本・新書類は、全盛期に比べて4分の1以下に減ってはいますが、もっともっと減らさなきゃと思ってます。
衣服類は元々必要な分しかありません。それでもあと30%くらいは捨てられそうです。
自分が作成した仕事関係の書類は、70%~80%捨てました。この処分では、心痛むことが多く思い出されました。
あーすりゃよかった、あーすべきじゃなかった、いうべきじゃなかった、気づかなかった、などです。特に他人を傷つけた言葉は、痛いです。もはやとりかえしがつきません。仕方ありません。
心無き言葉の射矢を消すよしもがな(拙作)
これも古傷です。
♪♪一つや二つじゃないの、古傷は~♪♪(都はるみ「大阪しぐれ」)まったくねえ。
修証義・第4章・発願利生・愛語にこうあります。(日本語のお経)
「徳あるは誉むべし、徳なきは憐れむべし。・・・面(むか)いて愛語を聞くは面を喜ばしめ心を楽しくす。面(むか)はずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず・・・」
あーあ、さっぱりだったな。俺は。
最後に残るのは、親しい人たちからの手紙かなあ。これは捨てません。
すでに鬼籍の人のもあります。母親、弟、H君。俺の死とともに彼らも消えるわけです。勿論消えるのは、私の(思い出の中の)彼等ですけど。