好きなら好きといえよ。

再び、平野啓一郎の「本心」について、思ったことを短く。

(以下ネタバレ、かつよく言う独断と偏見に満ちているので、この本を読む予定がある人は、このブログ、読まない方がいいです)

 

実は、俺は、主人公「僕」の愛についての態度にイラついた。

 

好きなら好きといえ、これが俺の言いたいことだ。勿論お互いがフリーの場合。

 

「僕」は、三好(女性)とアパートのシェアをしている。三好は売春と性暴力で男性との性交渉ができない。優しい「僕」は、それを十分尊重して生活する。やがて、三好を好きになる。三好も明らかに好意を持っている。しかし、イフィ(能力ある19歳の男性、「僕」の雇い主、障碍者、富裕層)も三好に好意を持つ。「僕」は、イフィの三好への愛を聞く。「僕」は、イフィに友情も感じている。そして「僕」は、多分「三好は、あちらの世界に住むイフィと結びついた方が幸せになる」と判断して、三好を諦める。

 

おいおいおいおい、2040年代の「僕」よ。君は、超昔の人かよ。

 

「それから」(漱石)の代助だって、ずっと後になって、友情が間違ってたとして、結婚してた三千代を友人から奪ったぞ。そうならないか。

 

なんで平野は、こんな恋を描くんだ。2040年代は、「あちらの世界」と「こちらの世界」の隔絶(恋を諦めるほどの)を言いたいのか。相手の幸せを想うのが愛と言いたいのか。それも愛とは思うけど、俺は嫌だな。心を全部言えよ。三好の選択に任せろよ。

 

男なら女だって、本心で生きよ。

 

ところがこの本のメインは、恐らく自由死を選んだ母の本心。俺はこれが理解できずに、ブログは、メインの周りをうろついている。