大石先生の戦後(教え子を戦場に送るな)

 大石先生とは、映画「二十四の瞳」の大石先生である。
大石先生は、戦争で多くの近しい人々を失う。夫と教え子たちである。末っ子の長女も戦争に殺されたようなものだ。空腹で柿を食べようとして落ちて死ぬ。(原作では栄養失調だったかな?)

先生は、末っ子の墓の前で泣きながら言う。「おまえは悪くない。子どもじゃもの、腹減りゃー、柿を食いたくなるのは当たり前じゃ。・・・」

そうだ、子どもに食わせられない大人が悪いんだ。そんな社会を作った大人が悪い。戦争と言う巨大な悪を作った大人が悪い。

戦争に勝てば良かったか、いやそうじゃないだろう。負けた米国で同じことが起こる。

近頃内田樹氏の「悪を考えるシリーズ」で知った。「秋刀魚の味」という映画のなかの「負けてよかった」という元艦長の言葉。それに同調する元部下。

そして俺は、思い出した。死んだ母も数十年前ぼそりと言った。「負けて良かった」と。

そうなんだ、原爆と言う無辜の人を殺した、国際法違反の米国でも、それでも「日本が負けて良かった」なのだ。戦前の日本のむごさ。

戦後大石先生は、教え子の戦死墓を一つ一つおまいりして、涙する。大石先生は、その時「かわいそう」ばかりじゃなかったのだと思う。

昭和二十一年、新学期。映画では、雨の中通勤する先生の姿で終わる。その自転車は、生き残った教え子たちの寄付してくれたものだ。
戦後手に入れた自由の中で、唱歌を教えるのが好きな大石先生は、多くの歌を教えるだろう。この年流行って今でも歌われている「みかんの花咲く丘」も。

明るくて尚哀しみを秘めた歌。共感する子どもが多かったろう。その最後はこうだ。「今日も一人で見ていると、優しい母さん思われる」。戦争に関係して母を失った子もいただろう。優しい「とうさん」を思い出す子供もいただろう。だから流行ったのだと思う。

同年日本国憲法が制定された。戦争放棄・戦力不保持の決意が表明された。民主的手続きで選ばれた衆議院貴族院の議員の圧倒的多数の賛成で。(ゆえに押しつけと言うのはうそ。だいたい押しつけの政府案通りだったらいま参議院はない=もともとの案は一院制)反対は共産党美濃部達吉だけと思った(未確認)

昭和22年文部省は、中学1年用社会科教科書「あたらしい憲法のはなし」を作った。その中に、「これからは軍艦も飛行機も戦争に関するものはなにもありません。でも皆さんは心配することはありません。日本は世界に先駆けて正しいことを行ったのです。正しいことほど強いものはありません。」(今その本が手元にないので未確認。)とある。これは、食うものもない貧困・混乱の中で、日本国国民の一つの誇りであったと思う。

大石先生は、手に入れた自由の中で、小学生にもこの教科書を写して教えたような気がする。戦前問題視された「草の実」を教えていた先生なんだから。戦前の国家主義軍国主義教育に、母性からあるいは人間として、無自覚であっても、疑問を持った先生なんだから。
少なくとも自分の言葉であるいは、自分の体験を交えて戦争反対を教えていたような気がする。「教え子を再び戦場に送るな」。これは日教組のスローガンだとおもうが、戦後の多くの先生の共通した思いであったろう。


かっぱを来てひたすら登校する大石先生。それは、「平和を願う」、そして多分「逆コース」に対して戦う先生だったと思う。単なる「泣き虫先生」じゃなかったと思う。多分ね。そんな先生も多かったのは間違いない。


今日本は、多くの「大石先生」の意に反し(多分)、米国と一緒に戦う国家になろうとしている。侵略の意味もよく考えない首相のもとで。現実を見ないで、原発汚染水を「アンダーコントロール」なんていう首相のもとで。