近頃、島尾敏雄著「震洋発進」(潮出版社、昭和62年)と木村禮子編集「海軍水上特攻隊震洋」(元就出版社、平成16年)を読んだ。
どちらも義父から借りた本である。以下はこの2著を読んで思ったことである。
震洋とは、太平洋戦争末期の特攻兵器である。全長5〜6メートルのべニヤ板製のモーターボートである。トラックのエンジンが推進力である。舳先に250キロの爆薬をつけて敵艦に突っ込むのである。
艇は2種類あり、一型が乗員1名で、五型が2名。特攻隊の1部隊は、一型だと50隻である。整備員も含めると、特攻隊1部隊は180名前後と言う。ボルネオ・フィリッピン・中国沿岸・台湾・沖縄・九州・四国・本州各地(最北は宮城県)に展開し、全部で150弱あった。
島尾敏雄氏は、戦争中第18震洋隊の隊長として奄美諸島の加計呂麻島で特攻隊を指揮した。彼は、戦後震洋隊の基地跡訪問に一生懸命になる。基地跡とは、おもに敵軍から震洋艇を隠した横穴である。彼は、基地跡を見、自分の敗戦前後の経験を思い、特攻隊震洋の全体の姿と意味を知りたいと思う。資料を跋渉し、地元の人に問い、特攻隊長であった同期生達を訪ねる。そうして出来たのが、「震洋の横穴」「震洋発進」「震洋隊幻想」「石垣島事件補遺」の連作短編である。(「震洋発進」所収)
「震洋隊幻想」「石垣島事件補遺」では、主として米捕虜虐殺の罪により震洋隊員が戦犯として処刑された事件をえがく。「震洋の横穴」は、8月16日(日付間違いではない)特攻出撃準備の最中爆発事故を起こし、100名以上死亡した第128震洋隊を描く。「震洋発進」は、実際に突撃した特攻隊二つ(実際出撃したのは2つのみ)のうち一つ沖縄県金武の第22震洋隊を描く。
島尾氏の震洋隊の探求の動機には、青春時代への思いはもちろんある。それと同時にさらに二つのことがあると思われる。
一つは、死すべき自分が生き残ったという負い目である。
>・・・一旦特攻の名をかぶせられた者にとって、生き残るについては理屈を越えた悩ましい未練な心情に付きまとわれないわけにはいかなかった<(震洋発進)
何故彼が死に自分が生き残ったか?この疑問は解けまい。この大震災で家族を失った人のなかにも生き残った苦悩をおっしゃる方がいた。人の心はどうしてこんな動きをするんだろう。
特攻は国家が個人の命を限る命令である。国家に個人の命を要求する、個人の価値以上の価値があるのか。そんなものあるのか。
も一つは、特攻死が実は無意味だったのではないかと言う根本的疑問である。
>震洋には期待に見合うだけの機動性はなく、又震洋使用の当初に既にアメリカ軍にその存在が捕捉され、兵器の性能もすっかり知られてしまっていたのだから。秘匿性が暴露されても尚効果が持続できるほどの柔軟な戦闘力を震洋は持ってはいなかった<(震洋の横穴)
作戦を立てる指導部の不道徳を思う。
尖閣奪回作戦とか米国への攻撃に同盟国として戦う(集団的自衛権)なんて考える政治家も、戦う自衛官の命を軽く考えてないだろうか。
島尾氏の誠実な思考が様々なことを考えさせてくれる。
尚余談であるが、加計呂麻島は、私の好きな「男はつらいよ」最終作の舞台である。
泉が満男に愛の告白をせまるあの島は、映画撮影の50年前島尾氏が特攻隊を指揮した島であった。
(続く)