菜穂子・楡の家を読んで

堀辰雄の「菜穂子・楡の家」を読んだ。

思ったことは、われらは、いや俺は、現代小説に毒されているなあと言うことである。

「菜穂子」は、>「やっぱり菜穂子さんだ。」思わず都筑明は立ち止りながら、ふりかえった。<と始まる。現代的である。

都筑明と菜穂子は追分村で幼馴染、菜穂子はこの時人妻、そして肺結核の侵されている。

期待して読み始めたが、劇的な何もない。刺激的な何もない。昔の思い出の中にも、今も、その後の話でも。淡々と話は進む。明の冬の旅と菜穂子の施療院から突然の帰京ぐらいが出来事である。その意味では退屈である。

しかし、刺激的なことを期待するのは、現代の小説の読み過ぎなんだと思う。現代小説は刺激に満ちている。そうでないと売れないんだろう。これって何か現代人に影響あるのではないか。

「菜穂子」そのものの雰囲気はいいなあ。読んでいて穏やかな気持ちになる。軽井沢や追分に行ってみたくなった。言いたいことはいまいち分からなかった。

堀辰夫がこの本を書いたのは昭和16年前半。この12月太平洋戦争が始まった。日本政府や軍部が、米英中ソを相手に、日米開戦に踏み切るかどうかという厳しい交渉をしている時、こんなことを一生懸命書いている人がいたんだ。普通の国民はどうであったか。

交渉は秘密事項であろう。しかし、知らないうちに2015年尖閣をめぐって日中開戦なんて
なってほしくないな。

情報は、原則すべて国民のものであるべきだ。意見は全て表明出来るように保障されるべきだ。

特定秘密保護法は廃止すべきだ。

この本は昭和23年発行、昭和44年33刷とある。こんな地味な小説を多くの人が読んだんだ。

楡の家」は、菜穂子の母の恋と菜穂子の結婚とこの母子の心理的対立を描いているようだ。この中のある場面は、昨年の映画「風立ちぬ」に使われているんではないかと思った。