「『きけわだつみのこえ』の戦後史」を読んで

上述の本は、保阪正康氏の1999年の著作である。

内容は二つあると思う。一つは、「きけわだつみのこえ」と言う本の歴史で、も一つはこの本を作った「わだつみの会」
の歴史とそれに関係する人物の話である。以下に思った感想を書く。

①保阪氏の綿密な取材で、「きけわだつみのこえ」と「わだつみの会」の真実の姿が見えたように思った。

②「わだつみの会」の戦後の歴史は、複雑である。この会は、1999年時点で、第4次わだつみの会とよばれるように、消滅・再興を繰り返してきた。この会の脱会者を中心に「わだつみ遺族会」というものも存在する。
この複雑さは、この会を構成する人たちのよって立つ基盤がちがい、会の目的をどう考えるかが人により違うことに起因する。その上、時の政治情勢・社会情勢が色濃くこの会に影響することからくる。
私は、その時々のどの立場が正しいか判断できない。ただ、「決定版」と言うことで私が数年前読んだ「岩波文庫新版」に改変があることが、この保阪氏の本で明らかにされおりがっかりした。第四次「わだつみの会」に不信感を持った。(私が最初に読んだのは、光文社版である)


③私はかつて「きけわだつみのこえ」が編集者の手で選別され、一部削除もあると知って、その行為を問題であると思っていた。

しかし、保阪氏の本を読んで、選別と一部削除は別に考えるべきと思うようになった。出版という商業行為や紙の供給量の制約と言う面がある以上選別するのはやむをえぬ編集行為である。当たり前のことである。また編集者たちの方針は、彼らの自由のはずである。これもまた、当り前のことである。

それなのになぜ私は、選別を問題だと考えていたんだろうか。
「きけわだつみのこえ」はベストセラーとなり影響が大きく、「安保闘争のなかで、反戦平和を叫ぶ若者たちの聖典」(上述本第2章)になった。
一方「戦没学生の多くの声は軍国日本の肯定であり、『きけわだつみのこえ』は、少数の自由主義個人主義的・反軍的傾向を有する戦没学生の声のみを集めた偏った本である」と言う批判の声があがった。

私は、この「偏った」ということは当たっていると考えていた。それゆえ、選別は「きけわだつみのこえ」の価値を下げると思った。私にとっても「きけわだつみのこえ」は聖典であって、聖典に傷があってはならなかったのである。それほどに私にとっては、大切な書だったのである。もともと私は、偏らないものはないと言う考え方であり、絶対ということを疑う考え方の人間であるが、「きけわだつみのこえ」は、絶対としておきたい心が働いたのだろう。ただ、編集方針(軍国主義を煽るものは削除等)は初めから示しておくべきだったのは間違いない。


一方、一部削除は、言い逃れのできないやってはいけない行為である。歴史的文書の改ざんに当たるからである。一部削除を認めた中村克郎は、「わだつみの会」の初めからの中心人物で、保阪氏の本で読む限り、きわめて誠実な人のように思った。彼は、削除の理由を「当時は「軍国主義的匂い」を消したかった」とを言っている。その気持ちはわかる。しかしやっちゃいけなかったことだ。軍国主義的匂いの中で、反軍的、個人主義的、自由主義的思想を披歴していると言う事実の方がインパクトが大きかったはずだ。
そんなことを思った。

④「きけわだつみのこえ」は、編集者によって選別されたものであり、中には一部削除や改変がある。しかし本「きけわだつみのこえ」の中にあるわだつみの声は、真実の声である。
それは多分、戦没学徒の中で少数者の声だろう。少数者が少数者でしかありえなかった過酷な戦前の軍国主義を表すものとしても貴重である。
一部削除や改変があるが、削除部分・改変部分はわかっている。その理由もおよそ明らかにされている。削除・改変のない個人の遺稿集も出版されている。
削除・改変が数多いわけではなく、わだつみの声を大きく変えてはいないことも明白である。その証明のため、わだつみの会の中の対立もいいことである。
一部戦没学生の学問・生への執着・家族への愛・生を断たれる苦悶・軍国主義全体主義への疑問・軍隊への嫌悪・中国人への同情・人間的心の表出・諦め・強がりが聞こえてくる。
「きけわだつみのこえ」は、今もって私の聖典である。