散る桜に思うこと

今年もまた、桜の花が散る季節となってしまいました。

「おや、なんで花びらが」と思うような街の中に花びらが舞っています。

自宅の窓からは、10本前後の桜の木が見えます。

風が吹くたびに、花びらが斜めに散り、真横に流れます。鳥がとまっても、花びらがこぼれます。

強い風が吹くと、思わず「ああー」と声が出ることもあります。

なるほど、「月にむらくも、花に風、思うに別れ、慕わずに添う」、常ないものの代表ですね。桜の花は。

桜の散る様子は、心落ち着かない風景です。心騒ぐので早く散ってしまえとまで思います。

つぼみから始まり、散るまでお騒がせな花でした。なるほど、桜がなけりゃ、心はいくらかのどかだな。

私は、ここのところ仕事上で悩み多い時期を過ごしました。人によってはどうでもいいような瑣末のことなんですが、私は、気になるとどうするのが良いかと煩悶します。同僚の70代の人には、「なるようにしかならないさ」と言われました。

結局なるようにしかならなかったのです。自分の矮小さ、無力を感じます。徒労。下手な考え、休むに似たりか。

集団的自衛権行使容認に反対しても、無駄なのかなんても思いもします。

しかし、戦後の良き日本を享受した自分は、反対の声を上げ続けなければなりません。

政権は、集団的自衛権行使に限定を付けて解釈変更をしようと考えています。限定を付けても同じことです。自国が攻撃されてなくとも、戦う同盟国を公海上で応援するわけですから、敵国とみなされ攻撃されます。自国が攻撃されてなくとも戦争になります。

憲法を無理して最もゆるく解釈した限界が「専守防衛にのみ自衛隊の武力を使う」でした。それが国論を二分し、戦後長く激しく論争した落とし所でした。

現内閣は、単なる1プレーヤーにすぎません。プレーヤーが自分で解釈を変えてこうしようなんて、おかしな議論です。内閣に対する憲法の命令は、今もって「専守防衛」です。
現内閣が、「国際ルールと違うから国際ルールにあわせてこうしたい」と言うなら、憲法改正発議をすべきです。

野党は、「自分たちが政権を取ったら、従来どうり解釈上集団的自衛権の行使を容認出来ない」と明言してください。そうすると、現内閣の矛盾がはっきりします。解釈改憲の矛盾がはっきりします。もし安倍政権で解釈を変更し、政権交代で元に戻せば日本国は笑い者になりますが。

風が収まって桜はまだ残って、夕陽に映えています。

「戦争をしない日本」を守っていかねばなりません。それが、「この桜が今生の見納め」と思って出撃し無駄死にさせられた特攻隊員への供養です。それが、日本国民310万の犠牲者やアジア諸国民への加害者としての責任です。