現憲法は国民にも厳しい命令を出している。

私は、日本国憲法を読んで、「厳しいなあ」といつも思います。
天皇以下の公務員ばかりでなく(99条)、一国民である私に対しても厳しい命令をしているなあと感じます。

それは、12条です。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う」

前段は、「自由や権利を保持するため、国民は不断に努力せよ」と言っています。

自由や権利の中に、「思想・良心の自由」(19条)や「集会・結社・言論・出版その他一切の表現の自由」(21条)があります。

私は、昨年制定された安保法制は、日本国に平和をもたらすより、戦争参加の可能性が高いと考え、本気で廃止すべきと考えています。この場合、反対の意見を署名や選挙の投票で表明することによって、思想良心の自由や表現の自由を守ったこと=憲法の命令を守ったことになります。(→ですから反対の意思があって、署名しないとか投票に行かないと言うのは、憲法の命令に背くものかもしれません。)

私は、署名や投票だけでは、安保法制を廃止することが出来ない、他の人へも働きかけないとダメだ考えています。この場合、一つの手段としてデモ(スタンディグも含む)もあります。
このデモも権利です。しかしながら、数万の市民の中で10名前後で街頭に立つのは、はずかしいし、変な目で見られるのかもしれない訳です。(私の妻は「アカになった」、みたいに言われたそうです)
さてこの時、憲法は、自由や権利は国民の不断の権利で守れと言っているのですから、恥ずかしい・面倒くさい・変に思われるなんて気持ちを棄ててデモをせよと私に命じているのだと思います。

かつて自民党公明党の議員や支持者の多くは、集団的自衛権は行使不能と思っていたと思います。いいすぎかもしれません。訂正します。ある一人の自民党議員や公明党議員あるいは支持者が集団的自衛権行使は間違いと今も思ったとします。
この場合、その人に対して、憲法は、思想良心の自由・表現の自由を守れと命じています。ですから自分だけでも、自分が少数でも、多数に対して反対意見を表明しなければならない事になります。たとえそれが自分にとって損だとしても。


日本国憲法は、実に厳しいと思います
たとえ周りの空気に逆らっても、自由や権利を普段から守るよう努力せよと言っているわけですから。

後段では、自由や権利はいつも公共の福祉のために使えと言っています。公共の福祉とは何でしょうか。
公共を個人に置き換えます。個人の福祉とか自分の福祉とはいっていませんね。公共は個人ではないわけです。(舛添氏は個人の、とか自分の福祉のために公金を使っていますね)
公共と言うと「公共事業」とか「公共施設」と使われます。国や自治体が行う事業で多くの個人や団体に利用してもらうための事業が公共事業でしょうか。公共施設も多くの個人
や団体が使う施設でしょうか。個人や団体はみんなと言ってもいいでしょうね。
福祉と言うと、便利さ、利益をもたらす、幸福をもたらすみたいなものでしょうか。

となると憲法は、これまた厳しい要求をしています。自由や権利は、いつもみんなの便利さや幸福をもたらすために使えと命じていることになります。
厳しいですねえ。誰が、誰に命じているか、何が、その行為が皆の幸福と考えるかも大問題ですが、分からないので、うるかしておきましょう。(保留)

さて今言っておきたいことを言います。

憲法改正しようとする人たちの理由の一つに、「今の憲法は権利ばかりで義務がごく少ない。自由には義務が伴う筈である、自由ばかり主張して義務を自覚しないから日本は悪くなっている。だから憲法改正して義務を強調すべきである」ということがあると思います。
こういう人達は、自由や権利を不断の努力で守るとか、常に公共の福祉のために使うと言うことを考えたことがない人たちだろうと考えます。だって息苦しいぐらい、とんでもない命令を憲法は出していると思いますので。
この人たちは、憲法がすごく厳しい義務を課している事を自覚してないのですから、つまりは、自己中心の、自分の利益だけで動く人達です
こういう人達のいう憲法改正なんぞは、まったく信用できません

も一つ言いたいことがあります。実はこれが言いたくて、このブログを書き始めました。
朝日新聞5月17日オピニヨン「憲法を考える」での、田村理 明治学院大准教授の論です。彼の主張はこんなことです。
(1)立憲主義という言葉は、皮肉なことに安倍政権への「立憲主義に反する」と言う批判から認知された
(2)戦後、日本国民は、立憲主義と言う観点を欠いたまま憲法を受け入れた。その例が「あたらしい憲法の話」である。
(3)立憲主義を護憲のシンボルにすべきでない。護憲だろうと改憲だろうと憲法の土俵に立って戦うのが立憲主義だからだ。公権力も決められたルールに従って行使されるべき
と言う認識が広がってほしい
(4)改憲派の人たちが、立憲主義は欧州で生まれたもの故、日本に会わないと言うのはおかしい
等だと思います。

(3)は、何が言いたいのか、私にはわかりません。意味ないことをただ言っているという風にしか感じられません。
立憲主義は、法の支配の一部だろうと思います。立憲主義とは、「ルールが一番偉くて、国民も、国会も裁判所も行政(三権)もそれに従え」と言う法の支配の一部で、特に三権に対し言っているのが立憲主義なんじゃないのかと思います。そのルールと言うのが憲法なのです。だから護憲=立憲主義じゃないのかなあと思います。

もっと違和感を感じるのが次の論説なんです

>「あたらしい憲法のはなし」には、立憲主義的記述はほとんどなくて、逆に「皆さんは、国民の一人として、しっかりこの憲法を守っていかなければなりません」とあります。
そうだそうだと思ったら、その時点で間違ってます。憲法を守る義務があるのは政治家や公務員であり、一般の国民ではありません。この記述は、立憲主義とは相いれないのです
<と言う論説です。

天皇以下公務員全てが憲法を守れ(99条)と言うのは立憲主義です。彼らが憲法のルールを守らねばならぬのは、当然のことです。当たり前です。しかし、冒頭書きましたように、この憲法は、国民にも不断の努力で自由権利を守れ、公共の福祉のために人権を使えと、ものすごいハイレベルな注文を出しています。人権は、全人類の努力の成果(97条)で、それをさらに発展させる努力をせよと憲法はいっています。市民革命や自由民権運動大正デモクラシーを受け継いで発展させよと命令してると感じます。

そしてこの憲法を確定したのが(前文)その時の国民なんだから、結局国民間の約束=みんなで決めた約束を守りましょうと言っていることになります。

皆で決めたルールを皆が守り(法の支配)、皆で決めたルールに三権を従わせる(立憲主義)べきだと思うのですがね。
この先生は、何が言いたいのでしょう。皆で決めたルールを守らなくていいと言いたいのかねえ。この先生が「この時点で間違っている」ということが、間違っていると、私は思います。

・・・議論がかみ合ってないかもしれません。
多分人権部分と政治体制部分で違うのでしょうね。この先生は、政治体制を言いたいんで、それは超当たり前のことなんですよね。私は人権部分で、人権を守るため努力せよと憲法(=みんなで決めた約束)に言われているといいたい、そんなところですかね。