原爆を許すまじー長崎にてー

12月3日、長崎の二日目は、定期観光バスに乗りました。初めに行ったのは、原爆資料館でした。

入口に、原爆投下の時間を示す壊れた時計がありました。11時2分です。入るとすぐに、傾いた鉄骨製の水タンクがありまして、爆風の強烈さを示していました。中学校にあったものだそうです。鉄骨がこんなに曲がってしまうのですから、生徒なんてひとたまりもなく飛ばされるでしょう。もらった資料によりますと、原爆のエネルギーの50%が爆風なのだそうです。(熱線が35%、放射線が15%)広島の資料館でも同じようなものを見ましたが、数本のガラス瓶が溶けて一つになっていて、熱の強さを表していました。
修学旅行の高校生と一緒でした。そばの女子高校生、「気持ち悪い」。頭蓋骨のついた鉄兜を見た時でした。

浦上地方が、ほぼ全滅なのに対して、長崎の市役所とか県庁のある中心部は、地形の関係で被害が余りなかったそうです。広島との大きな違いです。その日何があったかわからずに、被爆した人が逃げてきて、初めてその被害の大きさが分かった人もいたそうです。これらは皆、バスガイドさんの話で知りました。

原爆資料館のあとは、平和公園です。11時ちょっと前につきました。中学生たちが、平和学習でしょうか、代表が花束をささげたり、皆で歌を歌ったりしていました。

長崎平和祈念像です。この脇の方で中学生たちが、セレモニーをやっていました。

その時、スピーカーから歌が流れました。
♪♪ふるさとの街焼かれ、身寄りの骨埋めし焼け土に・・・・♪♪

妻は、「暗い歌だな」と言いました。知らない歌とのことでした。私は、瞬時に、ごく小さいころを思い出しました。数十年前、この歌がラジオから流れておりました。当時意味は全く分かりませんが、「何かひどく怖い感じの歌だな」と感じていたことを、鮮明に思い出しました。多分ラジオドラマの最初か、最後に流れていたのだろうと思います。どんなドラマか、ドラマじゃない別のものか、当時もわからず、現在もまったく分かりません。しかし、歌だけは、覚えています。1954年につくられた歌と言うことですので、聞いた私は、4歳から6歳ごろだと思います。



「原爆を許すまじ」
1.ふるさとの街焼かれ
身寄りの骨埋めし焼け土に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
みたび許すまじ原爆を
我らの街に

2.ふるさとの海荒れて
黒き雨に喜びなく
今は舟にひともなし
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
我らの海に
(3.4番省略)ネット見ました。

「まじ」は、古語辞典によりますと「決して・・すまい」と言う強い否定の意思表示です。この歌は、強烈な原爆反対の意思表示です。幼かった私は、この強烈な意志に恐怖を感じたのだと思います。特に「ああ許すまじ原爆を、三度許すまじ原爆を」が怖かったのだと思います。

1954年は、自衛隊発足の年でした。日本の再軍備が本格的に始まる年でした。同年南太平洋のビキニ環礁で米国の水爆実験があり、マグロ漁船第五福竜丸が被曝しました。久保山愛吉さんが亡くなりました。この年ゴジラが上映されました。原水爆実験の影響で怪獣が出現し日本を破壊したのです。この映画は、原水爆の恐怖を背景とした映画でした。原水爆こそ、怪獣です。この年は、映画二十四の瞳」も制作されました。戦闘シーンや残酷なシーンは、まったくない映画です。しかし、戦争反対の気持ちにさせられる映画でした。その意味では強烈な反戦映画と言えると思います。


同年日本国民は、原水爆禁止運動に取り組み、何と3000万以上の署名を集めました。空前絶後の数だと思います。それが、2年後の原水禁世界大会開催に結びつきました。

こんな中で、「原爆許すまじ」の歌は作られ、歌われたのだと思います。その後私は、この歌をどこかで聞いたでしょうか?歌ったでしょうか?定かな記憶はありません。・・・この歌は、だんだん歌われなくなったのだと思います。それは、原水爆禁止運動の風化を表しているのだと思います。そして同時に戦争反対の意思も風化してきたように思います。その風化が、安倍政権の誕生と安保法制の成立をもたらしました。

風化の中、長崎市では、定期観光バスが、原爆資料館平和公園を回って原爆の実態を教えています。そして平和公園では、112分に「原爆許すまじ」を放送しています。長崎市民の見識を素晴らしいと思います。

私は、日本の安全保障の基本的考えを、「非武装中立=「侵略されても軍事的抵抗をしない」から「日本領土への侵略に対しては、自衛隊に戦ってもらう」(武装中立・厳密な専守防衛)へ徐々に変えてきました。(勿論様々な前提条件を付けてですけど)

けれど、私の、戦争反対の意思が弱くなったとは、思っていません。自衛隊員を死なしてはならぬ、殺させてはならぬ。誰も(どこの国の一般人も兵士も)死なせてはならぬと言う気持ちは、変わっていません。どのようにしたらそれを達成できるかについては、迷うばかりですが。

バスの中では、ガイドさんが、永井隆博士のことを紹介し、彼のことを歌った「長崎の鐘」を歌ってくれました。加藤剛・十朱幸代主演の「長崎の鐘」という映画になったそうです。ガイドさんの話で知りました。

長崎の鐘
1.こよなく晴れた青空を
悲しと思う切なさよ
うねりの波の人の世に
はかなく生きる野の花よ
なぐさめ励まし長崎の
ああ長崎の鐘が鳴る

2.召されて妻は天国へ
別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの
鎖に白きわが涙
なぐさめ励まし長崎の
ああ長崎の鐘が鳴る
(3番、4番省略)

ガイドさんは、1番、2番、4番と歌ってくれました。♪♪なぐさめ、励まし♪♪のところで思わずぐっときて、涙が出ました。
この部分の転調が実に効果的です。
一方、この作詞者サトウハチローも、作曲者古関裕而も、戦争中は戦意高揚の歌を作っていたことを思うと、私には、少し複雑な気もちが萌してきます。しかし、「歌は世につれ、世は歌につれ」なんて言いますから、いいのかもしれません。

午後からは、大浦天主堂とグラバー邸に行きました。
大浦天主堂は、美しい聖堂でした。撮影に失敗して、写真はありません。その付属施設にコベル神父のコーナーがあったのですが、観光バスの時間がありますので、回れませんでした。大浦天主堂は、1597年、秀吉の命令により処刑された26人のキリスト教殉教者にささげられた聖堂であるというパンフレットの説明がありました。

その朝私達は、26聖人の殉教の地、西坂を訪ずれました。長崎駅から約10分、少し坂を登ると、広場があり、26聖人の碑がありました。私たち以外誰もいませんでした。

26聖人の中には、12歳の少年もいます。ルドルコ茨木少年は、尾張生まれ。修道院で働き、神父が捕まると、自らも捕まえるよう願い出たのだそうです。(パンフレット「大浦天主堂物語」より)深い信仰心を感じます。
同パンフによりますと、他にも数名、殉教を願い出た人がいます。また多くの殉教者は、修道院や病院や貧しい人のために活動しています。信仰の強さなのでしょうね。こんな素晴らしい人たちを秀吉は、見せしめのため耳をそぎ、京都や大坂や堺の市中を引きまわし、この長崎西坂の地で処刑します。(永井隆「この子を残して」を読んで知りました)秀吉がカトリックの領土欲を恐れたためでした。江戸幕府も、キリスト教を禁止し、絵踏みを行い、キリシタンを弾圧します。権力維持、封建制度維持のためです。長与善郎の小説青銅の基督を思い出しました。
開国後大浦天主堂が建てられます。そこに、隠れキリシタンが名乗って姿を現します。何と言う精神力でしょうか。心の強さでしょうか。(だからこそ権力者たちは恐れたのでしょう)明治政府も、初め名乗って出たキリスト教徒を厳しく弾圧します。やがて、列強に批判され黙認します。

昭和2089日、アメリカは、浦上の上空500mで広島に続いて二発目の原爆を炸裂させました。「浦上天主堂は、一瞬にして崩壊し、堂内にいた2神父と信者数十人が即死、浦上の信者一万二千名のうち、約八千五百人が死亡したとされる」(同パンフ)長崎に行くまで、大浦天主堂浦上天主堂は同じものとぼんやり思ってました。

抵抗力のない敗戦必至の日本に対し、かつ日本が講和を望んでいることを知っていながら、さらに原爆は、一般市民を殺傷することを知っていながら、米国は、原爆を投下しました。それはソ連に対抗するためでした。88ソ連は、ヤルタでの米国との約束通り、日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に対して参戦していました。既にドイツを中心に米ソ冷戦が始まってました。戦後世界をリードするため、米国は長崎に原爆を投下したのです。

アメリカもソ連(ロシア)も(戦前の日独伊も、戦後の英・仏も中国も北朝鮮イラクもシリアもセルビアクロアチアも・・・・)、自国(あるいは自民族・自部族)の利益のため行動します。それぞれの国民は、それを支持します。自国ファーストですね。
近頃●●ファーストなんて言葉が流行りますが、それは、●●以外は二の次ということも意味します。この言葉は、少し、立ち止まって考える必要があるように思います。

自国(自民族・自部族)ファーストは、他国(他民族・他部族)の利益を損傷することもあります。他国民を殺傷することも起こります。しかし、日常の、普通の心で相手のことを考えてみましょう。どの国民(民族・部族)も、相手が痛がる、怖がる、絶望する、傷つく、命を失う、悲しむ、なんて望むでしょうか。そうは思えません。しかし戦争やテロが起きます。

この矛盾をどう解消して「罪なきものが、罪なきものを殺す」事態(戦争)を避けるか、あるいは憎悪の連鎖(内戦・テロ)から逃れるか。
我々は、争いがあった時、話し合いで解決しようとします。それでだめなら、裁判所に決めてもらいます。話し合いの基準は、ルール(法令・前例・道徳・常識)でしょう。裁判の基準も、ルールです。国家・民族・部族の場合も同様だと思います。
利害がぶつかった場合、ルールに従って解決することが大事と思います。つまり、法の支配に全ての国家・民族・部族・個人が従うことだと思います。幸いにして、国際司法裁判所国際刑事裁判所等の司法制度があります。多くの国際法もできています。

ですから、それぞれの国民は、まずは自国政府がが法の支配に従うことを要求し、他国や他国民にも要求すべきだと思うのです。

国家(民族・部族)の利益が第一としても、国家(民族・部族)間に憎悪があったとしても、武器を使用するためのルールは、1899ハーグ陸戦条約以来存在します。その中には、戦争下でも、武器を持たない一般人を攻撃してはいけない、武装してない地域を攻撃してはいけないとあります。120年も前からあります。ですから、日本による南京虐殺重慶空爆も、ナチのゲルニカ空爆も、連合軍によるドレスデン空爆も、米国による東京大空襲も、原爆投下も戦時国際法違反です。-ロシア軍やシリア軍によるアレッポ空爆も、戦時国際法違反です

私たちは、まず、このルールを自国・他国の政府に守らせるよう行動すべきと思います。それが戦争や虐殺防止の一つの方法です。ですから、オバマ大統領には、原爆投下の戦時国際法違反の謝罪を、安倍首相には、中国での侵略・虐殺・米国への真珠湾奇襲の戦時国際法違反の謝罪を要求すべきと思います。全ての国民・民族・部族がルールを守るよう全ての政府・権力者・他国民や民族に要求すべきと思います。

6泊7日の私達の旅行の最後は、稲佐山展望台からの長崎の夜景見物です。稲佐山にあるホテルに泊まる予定もあったのですが、修学旅行生がいっぱいなのと経費の関係で、駅前のホテルに泊まって、展望台に行くことにしました。

ケーブルカーに乗って稲佐山につきますと、ちょうど太陽が海に沈むのが見えました。

太平洋側に住む私達は、海に沈む夕日を見ることが出来ません。荘厳と言ったらいいでしょうか、そんな風景でした。

これは、その数分後だと思います。夕闇せまる長崎の町と港です。
この港では、世界最大の戦艦「武蔵」が建造されました。勿論当時、山の上から見ることは、できません。見ようとしていると疑われただけで、スパイ扱いです。映画この世界の片隅ににもそんな場面がありました。吉村昭の小説戦艦武蔵は、九州中の棕櫚の皮がなくなる場面から始まります。棕櫚は、最高機密「武蔵の建造」を、スパイの目から、日本国民の目から、さえぎるための目隠しでした。「不沈艦」武蔵は、昭和19年秋、夕闇せまるシブヤン海に沈みました。


やがて完全な夜景になりました。美しい夜景でした。妻の話では、函館の夜景より美しいとのことでした。(ごめん、matsusunさん)私の写真は、ただ暗いばかりの写真ですね。私に写真の腕があれば、見えた通りをきちんと写せたはずなのですが。

長崎ー権力者の権力維持欲の犠牲になったキリスト教の人々、200年以上権力から逃れて信仰を伝承してきた人々、それを告白し弾圧された人々、鎖国時代の開港地、幕末、竜馬の活躍した土地、「武蔵」の建造された地、二度目の原爆投下された土地。まことに印象深い土地です。私の好きなさだまさしの生まれた土地でもあります。正確に言いますと、さだまさしの作る歌が好きです。

もう二度と訪れることはありません。

「原爆許すまじ」の最後は、「ああ許すまじ原爆を、みたび許すまじ原爆を、世界の上に」で終わります。第五福竜丸チェルノブイリ、福島、・・・世界の人類は、被曝し続けました。否、今も被曝し続けています。しかし、戦争での原水爆の投下は、かろうじてありません。「ああ許すまじ原爆を」の強烈な意思が、それを許してこなかったのだと思っています。