原町のスタンデイングに行ってきました。原町も参加人数が少なくなりつつあります。今日は私を含めて、9名でした。
原町のスタンデイングです。暑くなく寒くなく楽でした。個人的なことですが、うれしいことがありました。
参加者の一人から「あなたの寄稿文読んだよ」と言われたことでした。
2月に「生業訴訟」(原発事故訴訟の中で原告数が4000人と一番多い訴訟)の記録に、私も体験や考えを綴ったのですが、それを読んでくれたとのことでした。特に感想はありませんでしたが、少しでも読まれたんだと思うと、うれしくなりました。
このような証言集を作っています。今第5集まで作られています。証言を残しておくのはとても大事なことだと考えています。
さて今回の旅行のメイン「お伊勢参り」をブログを書いているのですが、気になることがあって、それがわたし的には大きい問題であり、どうもまとまりません。そのうちまとめます。
ですので、ほかに見たところを記録しておきます。
名古屋城です。さすがは御三家筆頭尾張徳川家の居城です。迫力があります。これは大天守閣です。その左に見えるのが再建された本丸御殿です。昨日8日公開されましたが、5月30日に私たちも見ることができました。京都の二条城によく似た部屋や障壁画と思いました。写真にはとりませんでしたが豪華でした。。同じ時期に作られたものですので、当たり前ですね。近頃、天守閣をもとのまま木造復元するか、障碍者が見学しやすいようにエレベーターを設置するかで論争があるようです。私はエレベータ設置に賛成です。元のままといったって、大天守閣等は、空襲で焼けたわけですので、建造時のほんとの元のままでないですので。
犬山城です。国宝です。すっきりした美しい姿です。
天守閣から見た木曽川です。犬山城は、木曽川の舟運のみならず、街道の分岐点にあたり交通の要所ですので重要拠点でした。支配者がお城を作るのは当然だったと思います。
犬山城に行く道路です。お土産屋、食べ物どころが並んでいました。私たちは五平餅、飛騨牛の串焼きを食べました。一つ買って半分ずつ食べました。
明治村の帝国ホテル正面玄関です。有名なライトの設計です。やはりかっこいいなあと思いました。この近くで食道楽のコロッケを食べました。おいしかったです。
同じく明治村の三重県庁です。重厚な造りでした。
同じく明治村の西郷従道邸です。最後は従一位伯爵の身分になり、海軍大臣など各大臣を歴任しました。維新の立役者にもかかわらず結局逆賊となった 西郷隆盛の弟です。兄弟の人生の違いは印象的です。
西郷従道邸の食堂です。賓客を呼んで豪勢な食事をしたことでしょう。
同じく明治村の夏目漱石と森鴎外の借家です。同じ家を近い時期に借りたのだそうです。西郷邸とはずいぶん格差がありますね。後世に名を残したという点では、西郷従道より漱石・鴎外の方が圧倒的でしょう。
明治村には、このほか郵便局、灯台、電話局、教会、学校、監獄、豪商の家など、明治時代に建てられた様々な建造物が広い敷地の中に置かれていました。明治のエネルギーを感じました。
明治とはどういう時代か。私は、普通に、植民地化をまぬかれ資本主義を発達させる一方、農村に封建制を残し、労働者の権利も抑えられ、国内の購買力が低いため、アジアを侵略し始めた時代と考えます。
明治村には、雨にもかかわらず小学生から高校生が数多く訪れていました。聞いてみると遠足、修学旅行、テーマ学習できているのだそうです。まあ、子供たちは元気です。エネルギーに満ち溢れています。「にしごうなんとかみちだって」、なんていってました。さいごうたかもり、知らないかな。君たち勉強しろよ。君たちに日本をまかせたよー。
伊勢神宮の次に印象に残ったのは、二見が浦の町でした。
JR二見の浦(町名は二見が浦)で降りた人は、想像とひどく違い数名でした。駅前も寂しい限りでした。夫婦岩に向かって歩くと、人通りがありません。道の両側には、格調ある旅館や面白そうなお土産屋があるのですがね。ガイドブックや朝井まかての小説「ぬけまいる」を読んだ印象とだいぶ違いました。
素敵な木造の三階建ての旅館でした。しかし、周りと道路に人の気配がありません。かつての賑わいとすたれた現在を感じてしまいました。いつでしたか、ブログ知人のSPYBOY様が木造三階建を紹介してましたが、見た目に珍しいので興味をひきます。木造三階建は、建てることが可能になってだいぶたちますが、田舎ではほとんど見られません。昔の建物だけです。
有名な夫婦岩を擁した街なのですが、訪れる人や泊まる人がずいぶんすくなっているのだと思います。
人口が激減しつつある衰退する日本を象徴する姿のような気がしました。