事実の報道についてー「エルピス」と「ローマの休日」

明けましておめでとうございます。

 

エルピス最終回は、迫力があった。

 

副総理の犯罪を暴こうとするキャスター(長澤まさみ)を、彼女の元恋人=政治家の卵=副総理の家来(鈴木亮平)が止めようとする。その対決場面は、このドラマのハイライトだろう。

 

元恋人「君がやろうとしていることは、この国を危うくする。副総理の犯罪を暴くのは、内閣総辞職、さらには政権交代、株の暴落、国家の信用失墜を起こす。この不安定な世界でそうなっては、この国は終わりだ。君にその責任が取れるか」

 

キャスター「私にその責任をとれると思わない。しかし事実の報道を止めた人に、事実を止めた責任はとれるのか」

 

 

私は、「政治的な事実なら、ましてや政治家の犯罪なら、どんなことでも放映すべき、

影響なんて、考えるな。どうなってもいい。どうなるかなんてわからない。負けるな、長澤。放映してしまえ。言った方が勝ちだ。言ってしまえ」と思いながら、見ていた。

 

 

 

結局、キャスターは、妥協する。もひとつの犯罪事実の放映と引き換えに。

 

 

脚本家等の作り手は、なぜキャスターに妥協させたのか?

 

妥協しない方が、見ている方はスカッとするのに。

 

脚本家は、視聴者をスカッとさせたくなかったんだろう。スカッとすると、人は忘れるからな。忘れてもらいたくなかったんだろう。悶々してもらいたかったんだろう。そして思い出してもらいたかったんだろう。ドラマよりひどい現実の日本の政治を。最高権力者総理大臣が、自分のお仲間の強姦事件の捜査に圧力をかけたという疑いがあることを。

 

 

「事実を止めた人に、事実を止めた責任が取れるのか」この問いかけは重い。これが作り手が言いたかったことなのだと思う。勿論答えはない。でも、恐らく事実を放映しても、事実の放映を止めても、責任はだれにも取れない。

 

 

昨晩偶然にも、NHKBS4kの「ローマの恋人」の放送を見た。ずいぶん見た映画だ。私は、王女(オードリ―・ヘップバーン)を取り戻そうとする王女の国の警察?と新聞記者(グレゴリーペック)たちの乱闘場面から見た。王女は、好意を寄せる新聞記者側に立ち、警察をやっつける。その場面を、新聞記者の仲間の写真家は、スクープする。これは新聞記者や写真家にとって大きなカネヅルになる。

 

しかし、記者と写真家は、スクープを捨て、事実を報道しない。事実(王女の犯罪=暴行罪ほか)を報道すれば、この王国は崩壊する。

 

しかし、事実を報道しないことで、記者の、王女への愛と写真家の友情が、見る者の心を打つ。スカッとする。王女は、恋を捨て、王国の為立派な王女になる覚悟を決める。

 

 

 

ローマの休日」では、事実は報道されず、それがいい結果を生んだ。恋は成就しなかったが(恋の成就の方が良かったかな?ウーム)。

「エルピス」でも、事実は報道されなかった。それはいい結果となったか?ドラマは、最後に副総理の犯罪も暴かれる、と示唆して終わった。一応のカタルシスは用意されていた。

 

日本の現実には、報道されない事実がいっぱいあるだろう。それはいい結果となっているか?

 

 

余り。「ローマの休日」で、記者もしくは写真家が事実を報道したら、記者と王女は結ばれたか?分からないな。その方が王女は幸せだったか?分からないな。写真家があの写真を他に売ったら?それで結局、記者と王女が結婚したら、写真家を二人はどう思うか?分からないな。

 

 

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