何かが欠如ー原子力災害伝承館ー

4月16日朝、突然妻が、「どこかに行こう」という。私は「日曜日は混むから嫌だ、高齢者は休みに動くべきではない、現役の邪魔」と抵抗したが、彼女「病院とプールの関係で今日しかない」という。急遽出発した。いつものGSのある南の方へ、という事で、かねてから気になっていた、浪江町請戸小学校へ行くことにした。浪江町請戸小は、近年、震災遺構として保存されている。

請戸小については、ブログ知人hatehei さんが、詳しく書いていた。

ハテヘイ (id:hatehei666) 1年前

請戸小が見つからない - ハテヘイ6の日記

ハテヘイさんは、昨年2月4日以来、更新がない。多くの大変な病気を抱えてのブログアップだったので心配だ。

私達は、ハテヘイさんと違って、すんなり請戸小に到着できた。

15.5mの津波は、校舎の一階を完全に飲み込んでいる。ブルーの表示板の▽の高さ。

一階の3年生の教室。

隣の2年生の教室)

2階の6年生の教室。黒板に子供たちの字がある。H23年3月27日とある。立ち入り禁止解除後にやってきた児童のもの。「がんばったね!」「がんば!!!」、「がんばれ」、 「がんばれ日本」の文字が、当時の緊迫した思いを伝えている。

挟まった丸太ん棒。津波の威力がわかる。

津波の高さ(青の掲示板の▽)。

体育館には、卒業式とある。震災は、卒業式目前の出来事だったと思われる。この体育館の右側は、床が抜けている。

津波が到達する前に、先生・児童(93名)とも約1.5キロm離れた大平山に逃れて全員無事であった。

校舎の見学順路に従い、避難の様子が、絵や文章・言葉で示されている。一部を紹介する。

地震だ」14時46分。

14時54分 「とにかく高いところへ、大平山に」
これが実に良い判断であった。子供たちと先生の命を救った。

津波到着は、15時34分。避難開始から40分後。

16時00分 先生・児童、大平山頂上到着

ここから通りがかったトラックでさらに安全地帯へ。
緊迫した様子がわかる。

それにつけても石巻市大川小の悲劇が頭をよぎる。全校児童数108名、犠牲になった児童数74名(うち行方不明4)請戸小で、大川小のパンフレットをもらった。

 

・・・

 

子供たちが逃げた大平山から見た請戸小全景である。

神戸大の協力によりつくられた請戸地区のジオラマ。請戸小5年生の教室につくられていた。建物の説明や各家庭の名前が書いてある。左上に請戸小がある。上の写真と見比べると、請戸地区の壊滅の様子がわかる。全滅である。

大平山にある、亡くなった方の慰霊碑である。死者の多くは請戸地区。請戸地区は、127名の死者、行方不明者27名である。

私には請戸出身の知人がいた。請戸川でのウナギ釣りが好きな男である。自動車修理工なので、津波当時請戸にはいなかったろうと思い、安心はしていた。しかし、年賀状のやり取りが、震災後ばったり途絶えたので、万が一と思ってはいた。この日初めて慰霊碑を見たが、この慰霊碑の中に彼の名はなかった。安心した。

 

お昼過ぎになったので、道の駅浪江で「浪江焼きそば」を食べた。浪江焼きそばは、B-1グルメで一位を取ったこともある。うどんのような太麺が特徴である。

 

昼食後その後どうするか、請戸小で割引券をもらったので、東日本大震災原子力伝承館へ行くことにした。600円のところ480円に割り引かれる。

 

およそ15分くらいで、同館に到着する。

初めに語り部講話を40分ほど聞く。講師は、富岡町の60代と思われる女性である。

話の中心は、避難生活の苦労であった。いわき→浜松→郡山と転々と住居を移動し、

現在は広野だそうだ。いまいち苦労が心に響かなかった。気になったのは「放射能

自然にもともとあり、病気治療にも使われ、体に悪いわけではない」という言葉であった。誰かに言わされているんだろうか。「量にもよるだろう、そんならなぜ逃げる必要あるんだ」、と言いたかった。が、言わなかった。

 

その後、ホールで簡単なビデオ上映があった。1960年代から70年代の原発建設の話しから始まり、事故・避難等が紹介された。

 

その後展示室に行った。1.災害の始まり 2.原発事故直後の対応 3.県民の思い

4.長期化する原子力災害の影響という4つのブースに分かれ、写真・文章・現物・ビデオで説明されていた。特に新しい情報はなかった。

 

全体を見て、何か不足しているように感じた。

原発事故関連死者数。妻はあったんじゃないかというが私は見つけなかった。あったのかもしれないが、目立っていなかったのは事実と思う。

なぜこの地区に設置されたかという説明はなかった。

放射性物質被爆の怖さの説明はなかった。あったかもしれないけど、印象的には扱ってないのは事実。

廃炉・除染・補償等にかかった、そしてこれからかかると予想されるお金の額、その負担などは扱ってなかった。

汚染水問題もなかった。私が見つけなかったのかもしれないが、本格的に取り上げてないのは事実である。

原発事故は人災だとは言っていた。

しかし、何かが足りないと感じる。

 

各地での起こされた裁判については私も妻も見つけなかった。裁判の対立点は示してもいいのではないかと思う。すでに最高裁の判決が出ている裁判もある。

 

どうも、被害のひどさを大きく見せない配慮があるように思うのは、私の偏見か。

 

そして反省するという気持ちが足りないと感じた。

 

その象徴が、あの「原子力明るい未来のエネルギー」という看板ではないかと思った。

 

あの看板、どこにあるかすぐにはわからない。同館の2名の係員に聞いて、ようやく場所が分かった。

 

なんと同館の中ではなく、外の、しかも極めて目立たない所にあった。ものは、レプリカである。本物は「何故展示しないのか、処分したのか」と聞くと、「物置にある、だいぶ劣化したので展示できない」との説明であった。当初展示の予定はなかったそうだ。この標語を考えた人の抗議を受けて現在のようになったのである。

見よ、見事に隠されていると思いませんか。本館に展示しない理由は、横幅16メートル

と大きいので展示できないとのことであるが、皆さん見てほしい。建物の大きさを。

やる気なら、展示できないはずがない!!

この施設は、公益財団法人福島イノベーション・コースト構想推進機構の運営だそうである。ネットで見ると、この施設は、国のお金で作られたものである。

 

劣化していても本物を出すべきである。あの看板は、政府・県・東電・原発関連企業・学者が原発を大いに推進して、大失敗をし、多大の迷惑を地域住民・国民にかけたという事の象徴である

それがこんな、知らない人は絶対目に入らない場所に設置している。隠ぺいしているのである。少なくとも出したくない、という感じを受ける。

 

足りないのは反省なのではないか?

国・東電・県の反省もまた、この看板同様レプリカなのだと思う。そう強く思う。本物じゃないと思う。大川小のパンフにはこうあります。「本当に恐ろしいのは津波ではなく、大事なものを真ん中に出来ないことです。同じようなことが私達の周りにないでしょうか」と。

 

この伝承館は大事なことを真ん中にしていないと思った。

 

なぜこうなったか、これについては、ハテヘイ様がブログでその事情を述べている。

 

ハテヘイ (id:hatehei666) 2年前

東日本大震災・原子力災害伝承館について - ハテヘイ6の日記

ハテヘイさんは、いわきに住み、体の具合が悪いながら、原発事故の実態を精力的に取材し、報告してくれていた。現在どうしていらっしゃるものか。