復活・スタンデング・今日は何の日そのほか

コロナから回復し、普段の生活に戻っています。

コロナ病の間、いけなかった畑のキュウリは、擂粉木級の太さになってました。昨晩キウリ汁にしました。(鯖缶・キウリ・板カマ・糸コン・豆腐・とろみ・塩味、娘制作)

 

昨晩は、これまた久しぶりに孫と彼女の部屋で、1時間半ほど遊びました。おままごとです。私は本読みが得意なんですが、パパ役やお医者役や先生役をやらされます。くたびれます。

 

 

元気なうち種をまいた大根・白菜・春菊・チンゲン菜は、芽の出が悪く、一昨日補植をしました。ただでさえ少雨で播種が遅かったのに、さらに遅くなります。

(芽が出てないポットが結構あるでしょう。白菜です。右が60日成熟、左が90日です)

夏野菜の里芋・ナスは、水をもらえず、息も絶え絶えという感じです。ミニトマトは終わりました。

 

昨日は、懸案の池の草刈り・土手の草刈りをしました。結構厳しかったです。まだ体力不十分と感じました。

だいぶ大きくなったので、刈るのも大変でした。あと一回で今年の草刈りは終わりです。黙っておくと左の芦原がわが土地まで押し寄せてきます。

 

今朝は1週間ぶりに散歩に行きました。 まだチュウに浮いているような感じで、まだまだ完全復活とはいかないようです。朝の明けるのが遅くなったように思います。 明けの明星は、相変わらず美しく輝いています。散歩中、頭の中で音楽が流れていました。近頃知った曲です。


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このバンドもこの歌も知りません。この映像を編集したのは、韓国人らしく、この韓国人と私の音楽の好みはピッタリです。

 

さて、

今日は、満州事変の始まった日です。 1931年9月18日関東軍(日本軍の出先機関)は、自分の工作隊に南満州鉄道(日本の経営)を爆破(数十センチと言われます)させ、中国軍の行為と嘘をつき、中国軍へ大規模な攻撃を仕掛け、満州を占領しました。 翌年には、日本軍は、自分に言いなりの満州国を作ります。 形だけの独立国家です。

これらの行為を、中国政府と民衆が認めるはずもなく、日本は、中国と対立を深めます。 また、世界の国々も認めるはずもなく、日本は、1933年国際連盟脱退・孤立化していきます。 そして、1937年には日中戦争・1941年には太平洋戦争へ進んでいきます。

 

つまり、太平洋戦争の惨禍は、1931年の満州事変がおおもとと言っていいと思います。

 

1941年11月、日米交渉の最後の場面で、米国の要求は、全中国(満州国からも)からの撤退(と日独伊三国同盟の無力化)でした。日本はこれを受け入れることはできませんでした。連合艦隊は、12月1日真珠湾へ進撃しました。・・・310万の日本人の死、1000万~2000万のアジア人の死。

結局あの戦争は、満州事変の起こした結果でした。なぜ満州事変が起きたか?が問題ですね。そしてなぜその拡大を抑えられなかったか?ですね。

 

今年の7月・8月、NHKTVでは、太平洋戦争の惨禍がずいぶん特集されました。 しかし、9月18日の満州事変については特集がありません。

 

毎日新聞でも、8月16日のオピニョン欄で井上寿一・近代史の扉「満州事変はなぜ起きた」でしか関連記事は見ていません。

 

 

内容:

満州事変は、「デモクラシーと幣原協調外交」に対する軍部の外部からのクーデタ。その例証:満州事変が起きる2か月前、若槻礼次郎井上準之助幣原喜重郎小磯国昭軍務局長の軍拡の説明を不十分と追及した。これに対し、軍がデモクラシーと協調外交の分厚い壁を破るのに、非合法手段(満鉄爆破)に出たと言った内容。故に?「軍事・安全保障関係の常識」と「その方針が政党を超えて共有されることが大切」。いまいちピンとこない。 この先生の話は、最初面白そうなことを言うんだけど、結局何が言いたいかよくわからないことが多いです。これは、読み手の私の問題かもしれません。

 

満州事変がなぜ起きたか、これはもっともっと特集などで私等国民に教えてほしいものです。

 

久しぶりに本日午後スタンデングに行ってきました。6人の参加でした。今日は休日の為楽しみの一年生は通りかかりませんでした。明日は、これまた久しぶりに原町のスタンデングに行ってきます。何人集まるかなあ。

 

坂の上の雲」まだ取りかかってません。気乗りしません。別な本読むかな。