宗教二世に関連して思う(NHK番組を見ての感想)

宗教二世に関するNHKの番組を二つ見た。一つは、ドギュメンタリー(以下ドギュ)、もひとつは、ドラマである。

 

ドギュは、エホバの証人(以下エホバ)と旧統一教会(以下統一教会)の旧信者と現信者を扱っていた。ドラマは事実に基づいたフィクション(宗教も仮想)という設定である。

 

私は、宗教そのものに興味はあるものの、宗教2世について興味はなく、なぜ見たかというと、どうして、エホバとか統一教会なんて、私に言わせれば、バカな宗教に入信するのはなぜか、という興味からである。

 

ドギュもドラマも、入信動機は多くは触れられていない。触れられた範囲では、やはり「苦しい時の神頼み」かな、と思った。番組では、職場で非人間的扱いをされたことや生活苦、家族間のトラブルの悩みから、ある宗教の神様に頼ったと紹介していた。

 

大学の倫理学か宗教学でこんなことを習った。「南洋の原住民が、サンゴ礁内の漁の場合(安全)、技術的準備だけをするが、外洋への出漁の場合(危険)、祈りを行う。つまり宗教は、人間の力が及ばない時発生する」と。

 

宗教は、困った時に誘いを掛ける。

私が浪人してた時、創価学会が、「入信すれば大学に合格できる」、と言ってきた。私は、「当落なんて合格最低点を取るかどうかで決まるもので、信仰なんて関係ない」といい、拒否したが、その後もずいぶん勧誘にやってきた。私が大学生になってもやってきた。私が理屈っぽい話が好きなので反論すると、一層本気になってしゃべる。どこかの中学校の先生だった。

 

 

困った時は、宗教に限らず、詐欺師・高利貸し・暴力団貧困ビジネスなど反社会的な組織が毒牙を隠して誘惑する。

 

 

困った時は、自力で解決するか、たえるか、家族・親族・親類、信用できる友人、あるいは公的扶助組織に頼るほかない。

 

ただし、これは宗教一世についての話である。

 

番組であつかっている宗教二世の場合、まったく別である。

 

というのは、一番助けになるべき家族が、問題の根源だからだ。親が宗教一世で、親の信じる宗教が、生活を破壊する性格を持つ場合、子は、親と宗教の二重の桎梏を受ける。

 

ただでさえ、子が一人前になるには、ある意味親との闘争(その結果の自立)が必要なのに、親に神がついてちゃ闘争に勝てない。自己実現ができない故その人は自己崩壊する。そしていろんな意味で自分を責めることになる。

 

ドラマでは、一家の長女が父の死に際して、神を信じられなくなり、家を捨てて水商売さらに緊縛ショーのモデルになる姿が描かれる。彼女は、神を信じられない自分を罰し続けるのである。母の思いにそえない自分を罰し続けるのである。妹の説得で、いったん家に帰るが、母は彼女を受け入れない。ドラマの最後は、母親の「あなたたちが幸せになるために神を信じた」という言葉に対して、長女の「(私が)神を信じなくともお母さんに愛してほしかった」という言葉で終わる。

 

神の与える戒律に縛られる母親、その戒律通りにできない自分を罰する長女。

 

私は、彼女らに言いたい。「その命令は、神の命令じゃない、その宗教の教祖の考えであり、全然絶対的なものじゃない」と。

 

 

ドギュでは、一家の長男が、喫煙という戒律違反をして破門され、その後家に戻っても母に受け入れてもらえず、結局自殺したという事が紹介されている。

 

 

こんな宗教なんておかしい。

 

 

 

一方、この親たちは、本心から子供の幸せのため入信したのである。ところが子供は不幸せになる。実に大きな矛盾である。

 

この親たちは、子供より神・宗教の戒律を重視した。子供の方が大事でしょうに。

 

 

一人の人間に、「子を捨ててまで信じろ」と言う神や戒律なんて、邪悪と思う。

 

「しろがねもくがねも玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」(山上憶良)の方がホントだろ。

 

 

 

 

 

キリスト教神話に「神が一人息子イサクをいけにえに捧げよと命じ、それに従おうとする男親」の話がある。そんな神は、ごめんである。信仰心を試したのだろうが、超意地悪な神である。本人が 悩んで自殺したら神は責任を取れるのか?まあ寸前に救うのだろうけど、いやな性格だ。いや、神格だ。

 

 

葬式仏教という悪口がある。現代の仏教は、お葬式の時だけ活躍するという悪口である。確かに葬式仏教という批判は当たっていると思う。

でも、子と信仰のどちらを取ると迫る神よりよほど良い。従えない子を破門せよという神よりよほどいい(ドラマで、その教祖は母親にこう言った)。

たとえ、葬式の時だけ活躍し、金儲けだけだとしでも、親しい人を失った衝撃を幾分でも和らげる働きはする。それらしく、人の死に寄り添った風をにおわせて。

 

 

いい加減が、良い加減なのかもしれない

 

 

絶対的な神を信じるというのは恐ろしい事である。絶対的なこと(信仰・真理・正義・道徳)なんてない、と人は考えた方が良いと思う。

 

絶対的なことがあると考えると、その理想(あるいは戒律・あるいは道徳あるいは思想)に達しえない自分を責めることになる。「理想は大事、でもあくまでも理想は理想で、少し近づければよし」とする方がいいと思う。勿論その以前に、理想には様々あるのは、当然である。

 

 

ドギュでは、エホバの信仰者(女性)が、死に直面した母親に輸血するかどうかで悩んだとき、この信仰者は、輸血を拒否した、そのことに深く悩んだ姿が紹介されていた。私も認知の進んだ母親に胃ろうをするかどうかで悩んだことがある。この女性の悩みはわかる。また、彼女の輸血拒否の措置は良かったと思う。それは、母の意思に沿う事だからだ。

 

 

ドギュでは、統一教会の現信者が、解散命令が出された場合、どう社会と折り合いを付けるかに苦悩している姿も紹介していた。現信者どうしの話し合いや脱会者との話しあいをやっているが、解決策が見つからない。

 

 

(ドラマで)学校の先生が、長女の母親を「やばいなあ」と言った時、長女は社会を拒否し、親の意向に従えない時、居場所がなくなる。そして自分を責めることになる。

 

だれでも居場所がないときつい。親は絶対居場所であるべきである。親は一部の信仰を捨てても居場所であるべきである。学校も、何らかの形で居場所であれればよい。社会も、犯罪を犯さない限り、居場所になれればいい。

 

犯罪を犯さないなら、信仰者を拒絶すべきではないのだろう。「俺はこう思うけど、いろんな考えがあるさ」、くらいかなあ。政治事案同様、信仰に触れないで、日常的に付き合う、なのかなあ。ドギュでは、現信仰者が非信仰者の友人によって居場所を見つけた、という話もあった。

 

まとまりのない感想となった。間違いもあると思う。気分を害された方もおられると思う。ご容赦下さい。