原発を止めよう(その2)・原発事故隠しじゃないか

前のブログに続き、原発事故に関しての番組を2本見た。

一つは、私の地元相馬市原釜の漁師たちの、原発事故後の話である。2011年震災の年に高校を卒業して漁師になった青年を中心に、この浜の13年間を描いていた。

 

事故直後、魚に放射能が出たので出荷できず、漁師たちは、漁網でがれきを撤去していた。魚も瓦礫と一緒にいっぱい取れたが、すべて海へ返した。漁師たちの、すごく残念な顔が印象的だった。

 

その後漁業は、タコなど3種類だけ、しかも一週間に一日だけの試験操業から始まった。そこから10年、徐々に種類も操業日も増えていった。

 

しかし厳しい現実もあった。東京の団地で無料でシラスを提供してた時、母親に「福島の魚なんて食べちゃダメ」と言われ、子供の目の前で、ごみ箱に捨てられたと言ってた仲買人がいた。ひどいものである。放射能検査はしているのに、である。

 

しかし、怖いと思う気持ちもわかる。

 

2011年3月14日夕方、わが家の前を焼き芋屋が通った。食い物がないころだったので、俺はいっぱい買ってきた。芋は、前年にとれたサツマイモだという。浪江の芋だという。俺は心配ないから(放射能汚染なんてあるはずない、前の年に取って倉庫に入っていたものなんだから)喰えと言ったが、妻も娘も婿の母親も、食わなかった。人の感覚は、様々だ。やむなし。

 

原発事故は、無用の偏見と分断を起こす。悪いのは、事故を起こした東電と政府である。

 

そんな状況なので、仲買をやっていた人が、かなり廃業した。

 

魚を獲る人と流通両方がそろってないと、漁業は成り立たないと言っていた。なるほど、獲るだけではダメなんだ。当たり前のことに気が付いた。

 

漁師には、かつて漁獲高の8割の金額が保障されたが、仲買には、補償はあまりなかったとのことである。

 

現在でも、原発事故前の4分の1の漁獲量しかないとのことである。

 

主人公の若者の親、この人は地元ナンバーワンの引退した漁師であったが、彼は言う。

 

デブリ取り出しまで、最低でも40年。そのころ、息子は70を過ぎ、もう漁師ができないんじゃないか」

 

 

 

 

 

もひとつは、あぶくまロマンチック街道」(ETV特集で、阿武隈山地の村村の、事故前から現在までの変化を描写したものである。秀作と思った。

 

NHK取材班は、2023年の春夏秋冬、国道399号線沿いの村々をくまなく取材した。その切り口は、2010年最初にして最後の、フォトコンテストに出品された写真である。この福島県の399号線沿いの村々は、原発事故後すべて避難地域に指定された。

 

その2010年の写真の切り取った、村々と人々とその生活の営みは、美しい。

 

200余年の桜の古木・その下での人の集い(元都路村)、子供たちの川遊び(飯舘村)、灯まつり(元都路村)、凍み豆腐つくり(葛尾村)、モリアオガエル川内村)、実に美しい。

 

「ゆい」があった。人と人の触れ合いがあった。自然と人の触れ合いがあった。

 

原発事故は、これらを破壊していった。

 

印象に残った言葉を書き記す。

 

〇「かつては、人間が人間らしく生きてた。事故後は風景が変わった。生活が断ち切られた。除染土の山積。」(元都路村出身。現在南相馬市在住、佐藤公則)

 

〇「自殺した妻みねこは原発に命をとられた。東電から謝罪の言葉でも線香の一本でもあれば、俺は納得できるんだけど」(今泉信吾、現在東電と係争中)

 

〇「かまどの火を見つめて、私もこの村で生きようと思った。東電はお金で買えないものを奪った自覚があるのかな」(石井ひろみ。浪江町津島の18代続く旧家の嫁)

 

〇「皆に協力をもらって頑張ったんだけど、事故後子供のことを考えて長野へ。しかし逃げたという気持ちがあり、皆に悪いという気がずっとしていた」

(吉田敏八。都路村出身、現在長野県在住。ロマンチック街道を立ち上げた人。将来の帰還を考えている)

 

・・・・

3月10日から11日、妻と二人で袋田の滝茨城県大子町)を見に行った。途中、いわき市大久の恐竜の里に立ち寄った。今月で閉園とのことなのでなごりに行った。子供が小さいころ行ったところである。

閉園は、原発事故やコロナ騒ぎが影響したんだろうか。

 

袋田の滝である。
子供たちが小さいころ、遠くて、行こうと思って行けなかったところである。

奥久慈はいいなあ。

実に久しぶりにアユを食べた。わが地元でもアユ釣りが盛んだった。真野川が有名であった。今は誰も釣らない。あの飯館から流れる川だからである。情けない。

 

野セリ、キノコ全種、ワラビ、ぜんまい、フキ、タケノコ、皆出荷停止である。

事故後13年の現在の話しである。

 

袋田の滝へは、往路高速を行った。やはり浪江・双葉・大熊と第一原発に近づくにつれ、線量が上がった。最高は、大熊の1.8µ㏜であった。

 

帰路は、国道六号線。 富岡まではあまり感じないが、大熊・双葉・浪江は、現在でも原発被害が歴然である。空地、多くの太陽光パネル、空き家、捨てられた店、帰還困難区域の立札、スクリーニング場案内、立ち入り禁止、警備員がたっているところもあった。

 

それにしても、6号国道沿いに線量計がないのはどういうわけか。私は一つも見つけられなかった。原発事故後数年で国道六号を通ったが、ものすごくいっぱい線量計表示があった。当時一番線量が高かった、原発入り口の夫沢の住所表示もなかった。

 

これは、なぜだ。私は事故隠しじゃないかと思った。

 

 

最後に人口の変化を紹介する。朝日新聞3月11日より。

     2011年3月1日→→→2024年2月1日

仙台市  1046737      1097032

相馬市   37721       33236

浪江町   20854       2162

双葉町   6891        103

大熊町   11570       1144

富岡町   15959       1184

いわき市  341463      320236

 

これでも、原発再稼働、60年延長運転。新規原発建設やるのですか?