NHKの番組で、大地震に見舞われた能登の人たちのすごさを見ました。
一つは、「仕事の流儀~能登のプロフェッショナル」です。
この番組は、革新的輪島塗を起こした桐本さん(61歳)を中心に、イタリアで最高賞をとったジェラート造りの柴野さん(48歳)、日本酒造りの農口さんの三人の活躍が描いていました。
皆さん元旦地震の被災にも拘わらず、ものつくりを守っていこうと大奮闘していました。
桐本さんは、木地職人の家に生まれ、職人を雇って一貫して輪島塗を製造できる工場(現在5人の職人が在職)を起こした人のようです。そして、製造方法も変え、お椀のみならず皿やスプーン、家具・外装にも漆を使用するという革新的な漆製品製造者のようです。
(・・・ようです、と不確かなことをいうのは、私にはまったく、輪島塗・漆製品に対する知識がないためです)
この震災で、桐本さんは工場のみならず自宅もやられ、工場のそばのテント暮らし、塗師頭(ぬりしがしら)の小路さんは、避難所暮らし、木地師の久保田さんは、金沢での借り上げアパート暮らしです。若い女性の塗師は名古屋の実家にもどり、漆器の修理をやっています。
こんな中で桐本さんは、職人たちを力づけます。職人たちも、それぞれ立ち上がっていきます。番組の最後では、仮設の工場(紙製?)を造る計画が紹介されてました。
印象に残った言葉。
桐本さんの奥さん「誰かが元気を出せば、他の人も元気になる。元気の連鎖が起きる」
小路さん「頭の中では、価値創造ができる。平和に普通に仕事ができることって大切」
桐本さん「傷は深いがきっと治る。俺たちにはその基礎がある。輪島塗は直したらもっ
と長く使えるものだ。輪島塗は、人を気持ちよく、温かくするもの」
「人が離れるのが一番怖い。場所があれば戻ってこれる」
柴野大造さんのジェラート製造では、彼を支える人々に感心しました。
酪農家「俺が(震災で)つぶれたら、大造さんがつぶれる」
(誰もが相手のことを思っている、というナレーションが入りました。ほんとですね)
特に、珠洲の塩つくりのおじいさんには参りました。
地震の為かなり隆起し海がずっと遠くなったあの海岸で「俺は塩づくりはやめない」と言って、バケツらしきもので、天日干し場に、海水をぶちまける姿!
その持ち上げて一瞬静止した姿に、私は、彼の「負けるものか」という決意と言うか祈りと言うか、とにかく人の強さを感じました。
もひとつは、昭和57年制作のNHK・新日本紀行「ゆきんこの便り」です。
珠洲市のある一家の冬の生活を描いていました。一日に1mも降ることがある大雪地区です。
珠洲市南山は、当時15戸の地区で、田中さん一家は、爺さん・婆さん・ようこさん(小
3)かずともくん(小1)、みちこさん(保育園)の5人で冬を暮らしてます。
この一家の御主人は、5年前名古屋への出稼ぎ中、亡くなっています。その一家を支えるため、今は母親が滋賀県の紡績工場に出稼ぎをしてます。
雪が深いため、冬の学校は分教場(分校)です。小学校の二人は、「行ってきます」と言って2階に上がります。そうなのです。分教場は、田中家の2階なんです。先生は、若い女の先生で、ずっと田中家に寝泊まりです。
すごいなあ、信じられない生活です。先生も生徒もあったもんじゃない。
本校で行われる学芸会では、先生も出て演劇をやります。(ようこさんが和尚さん、かずともくんと先生が小坊主役)
2人は、出稼ぎ中の母親に手紙を書きます。「いっぱい働いてお金貯めてお土産下さい」なんてね。
母親もそれにこたえて、昼夜二交代・時には日曜日も職場に出ます。
母親の出稼ぎは、12月から4月です。いやー大変だ。母親も子供たちも。
そして私は思います。
原発のことを。原発があったら出稼ぎしなくていいんではと。そして彼らはそう考えなかったことを。
北電・関電などの珠洲原発計画は、この南山地区からおよそ直線10キロ(地図上の目測なので正確ではない)の南屋地区です
この昭和57年(1982年)は、珠洲原発建設計画の最中です。珠洲では、79年スリーマイル島事故の影響もうけて、反対運動も盛んになります。しかし、83年珠洲市長は、原発推進発表。84年には、珠洲議会が原発推進了承。
WIKIや原発反対運動の記録を見ますと、賛否両論で、ずいぶん住民間の対立があったようです。
私は思います。
父親が出稼ぎで死んで、生活の為今度は母親が出稼ぎするような地区を抱える町で、反原発運動が盛んだったという事を。
そしてそれに深い感動を覚えます。
珠洲市は2万8千の人口のうち、毎年2千人が出稼ぎとこの番組で言ってました。
珠洲原発は、紆余曲折を経て2003年正式に断念されました。つまり反対運動が勝利したと言えます。
福島県浜通りの東電の原発も、農林業の他に何もめぼしい産業がない、そして出稼ぎもあった双葉・大熊に誘致されました。その周りの・小高・浪江・楢葉・富岡も同じです。
1950年代後半・60年代の高度成長に取り残された地域です。原発誘致に心が動かされるのはやむなしと思います。お金は来ますし働き口は間違いなくあります。そのうえ、何せ安全なんですから(苦笑)「原子力明るい未来のエネルギー」なんですから。
1973年第一原発一号炉が運転を開始しました。
勿論反対運動もありました。スタンデイング仲間のS氏は、浪江町・請戸漁港の漁師で、漁師仲間では殆ど唯一の原発反対者でした。村八分同然だったと言います。
簡単に珠洲との比較はできません。比較してよいのかとも思います。
それでも思うんです。あんなとんでもない雪深い部落を含む珠洲で、あそこでも、出稼ぎなんてしたくないだろうに、それなのに、反対運動の結果、原発が出来なかったこと。その偉業を。
今度の地震を考えると、この反対運動は、日本全体を救ったとも考えます。
1960年代から東北電力による、浪江・小高原発計画がありました。ここも紆余曲折・対立がありながらも、浪江町の棚塩(たなしお)の人たちを中心に反対運動があり、原発を断念させました。(計画が進まない中、原発事故が中止の決定打となりました)
私は労働組合を通じて、ごく消極的に反原発運動に参加しました。それはせいぜい署名活動やカンパぐらいでした。
私は、「トイレのないマンション」という点で原発に反対でしたが、安全神話を信じていました。事故があってもせいぜい発電所内だろうと。
無関心でした。勉強不足でした。反対派の意見を良く聴きませんでした。本も読みませんでした。反対派集会への参加は、いわき市でのただ一回だけでした。
雪深い、出稼ぎの多い部落を抱えた珠洲市の反原発運動は、立派でした。日本を救いました。