開沼博「フクシマ論」を読んで

この二日をかけて「フクシマ論」を読みました。自分なりのまとめと感想は以下の通りです。

①同書は、2011年1月に東大に出された修士論文を中心とする著書であり、原発事故以前の「原子力ムラ」のレポート及び考察としてきわめて価値が高い。


②「原子力ムラ」を政・官・財・学の原子力ムラと原発立地自治体の原子力ムラと使い分けをし、その二つのムラの共鳴により原発が推進されたというのは説得力がある。


③同書の副題は、「原子力ムラは、何故生まれたのか」であるが、同書の論述は、この副題に添っていない。


④3.11以後に書かれた補章を除いて、同書の全体は、日本の明治以降の中央と地方の歴史的関係の推移を記述している。


⑤その歴史的推移を帝国主義的植民地政策ととらえている。戦前は対外的植民地政策、戦後は、国内の植民地政策ととらえ分析している。


⑥戦後の中央と地方の植民地的政策を単なる支配・被支配や抑圧・被抑圧と見ないということ、服従という概念で見ようとする。それを主として(他には常磐炭鉱・只見川電源開発原発立地自治体について研究し、「原発立地自治体の自発的服従」があると指摘している。

⑦自発的服従に至る過程の中で、俗にいうと県レベルの役割の低下を指摘し、現在は立地自治体の自動的自発的服従の状態にあると指摘している。


⑧自動的・自発的服従の構造を排除・固定という概念で説明している。


⑨同書の、経済発展の中での中央と地方の関係分析・立地自治体変化の分析は有効である。それは他の産業でも言えることとである。それを著者は原子力産業で行っている。しかし、原発には他産業と大きく違うものがある。事故がなくとも取扱困難な放射性廃棄物というものを作りだすという点と一端事故があれば国家を傾けるほどの甚大な被害を与えるということである。その差異を同書は意識していない。つまり安全神話前提の論述であった。


⑩同書の指摘する、浜通り中部の三つの原発の運命が示唆的である。第一原発=殆ど反対なしに設置、第二原発=反対がありながら設置、東北電力の浪江・小高原発=反対があり設置失敗。この違いの理由をさらに考える必要がある。


以下、自分の意見。
⑪「服従」という概念が何か積極的ものをもたらすかどうか疑問である。

原発も高度成長時代、地域開発として他の工業団地と同じで誘致されたものである。原発の特異性(危険・後世代への負担)には、推進側も受け入れる側も消費者=国民も目をつぶった。

原発難民がこの事故後も仕事として原発を欲する、原発立地自治体・原発労働者が再稼働を願うという実態がある。
生活の安定を願うのは、当然のことである。


⑭ある産業が何らかの理由で衰退消滅するのもまた当然のことである。綿花栽培、石炭産業、アルミ産業、市街地内の商店街等、衰退消滅した産業がある。その理由もさまざまであろう。

原発は国策で進められた。安い・エネルギー自給・クリーン等の理由である。危険と後世代へ負担は意識の外に置いた。
これらの理由は全て虚偽であった。意識外に置いた危険・後世代への負担は、顕現した。
故に原発は国策で、消滅させるべきである。それぞれの責任に応じての負担で。