「放浪記」と「残虐記」

先に桐野夏生の「ナニカアル」を読んで、主人公林芙美子に関心を持ちました。

そこで有名な「放浪記」を読みました。「ナニカアル」の中でも、芙美子と不倫相手の毎日新聞記者斎藤謙太郎が別れる大きな契機となった「放浪記」です。

斎藤謙太郎は、芙美子の作家としてのプライドを傷つけます。一番有名な「放浪記」だって、庶民生活の歴史的描写の価値しかないと。文学的価値はないと。

私に文学的価値の判断なんて出来るはずもありませんが、興味をもったので読んでみました。まえがきが長くなりました。

「放浪記」を読んで一番に思ったことは、もどかしいということでした。仕事・食べ物・着物など生活の細々は良くわかるのですが、その生活のおおもとが分からない。いつ、どこでがわからない。いや違いますね、何年何月と言うのもわかる、どこというのも大たいわかる。
・・・多分経過が分からないんです。芙美子もその両親も友人も恋人もその動静が分からない。説明的ではないのです。

つまり、日記そのものなんです。他人に読んでもらって分かってもらうという意識がない。自分の思想・感情が生のままでている。それがまた魅力的でもあるんです。

さて林芙美子と言う人間。これは面白いな。何と言ったらいいか。生命力あふれる女、自分に正直な女、極度の貧乏にたち向かう強さ、強いけれど繊細、愛と憎しみのきわめて多い女、世間は気にしない女、いや世間と喧嘩をしても自分を主張する女・・・いやーことばに出来ないな。

文章は文句なく素晴らしい。

当たり前かも知らないが、自分の人生で接触した女性、母も妻も娘も近所の奥さん連中も職場の女性たちも、林芙美子のようではない。林芙美子のようでなくて良かった。いや、ひょっとしたら、彼女たちも心の中は同じなのかも。

おっと私が読んだのは、と言うか図書館にあったのは、改造社版「放浪記」の復刻版を底本にしたみすず書房(2004年)である。

「ナニカアル」」で興味を持った桐野夏生の「残虐記」も読んだ。残虐なことは嫌いなので、びくびくしながら読んだ。

面白かった。作者は、残虐なのは世間の目と言いたいのかと思った。そのとおりだ。
それにしても小説家の想像力はすごい。