人と個人の違いについて

明日は総選挙です。最終盤の情勢も、自公政権が圧勝で三分の二を超えると言うことです。それを信じますと、衆議院憲法改正提案が視野に入ります。参院でも野党にも憲法改正に賛成の人たちも多いので、憲法改正も我々国民の考えならないこととなってきました。

しかし、私は自民党は偉いと思います。おちょくっているのではありません。本気です。

と言うのは、憲法改正を言っている政党で、憲法改正案・条文を提示しているのは自民党
だけだからです。公明・維新・民主・その他は、ああしたいこうしたいと言っていますが、条文を示していません。条文で全ては決まります。正確には条文とその解釈ですが。
その条文を示さない改憲を目指す政党は、憲法については信用すべきでない政党です。



自民と社民・共産しか憲法について言う資格はありません。公明・維新以下は憲法について発言する資格はありません。社民・共産は、今の憲法でいくべきと言ってますので資格があります。

さて、自民党案(平成24年4月決定)について、言いたいことはさんざんあるのですが、基本中の基本、人権の基本について私の考えを述べます。憲法13条です。その前半の一部だけについて述べます。

憲法規定は、「すべて国民は、個人として尊重される」です。それを、自民案は、「全て国民は、人として尊重される」と変えようと言っています。

私はこれは非常に大きな変更と思います。私は、現憲法規定の個人であるべきと強く考えています。

どう違うか。

平家物語の有名な一節をご存じだと思います。「平家一門にあらざらん人は人非人なるべし」平家以外は、人であっても人でないと全盛期の政権担当者は言っています。つまり「人」概念には、ある意味づけがされる可能性があります。


同じように、戦前に「非国民」と言う言葉がはやりました。ある行動する人が国民であってある行動をする人は国民でないと言う考えです。

「人」と言う概念には、ある意味づけをされる可能性があります。個人と言う言葉は、多くの人が非国民という言葉で言う人であっても、尊重されると言う言葉です。

個人として尊重されるとは、人はこうあるべきだと言うすべての概念を超越した概念です。

女は子どもを産むべきだ。男はこうあるべきだ。人はこうあるべきだ。こうあるべきでないと言う全ての規定を、個人と言う言葉は否定します。子どもを産もうが産むまいが、男らしい男も男らしくない男も全て尊重すべきと言う言葉です。憲法は、国家権力を縛るものです。個人として尊重するとは、国家権力は一人ひとりの生き方に口出しするな、価値序列を付けるなと言うことです。人として尊重されるとは、人にある意味を付与する可能性があります。「政権の期待する人と言うこと」が忍び寄ります。それを寸毫も忍び込ませてはなりません。「個人として尊重される」と言う規定は、その可能性をきっぱり否定します。

共産主義を含んで多くのある集団の目標に「みんなは一人のために、一人はみんなのために」と言う言葉があります。しかし、「個人の尊重」とは、この考えを否定する人も尊重すると言う規定です。日本人はこうあるべきだと言う概念があります。こういう概念にあわない人も、権力は尊重すべきと言うのが、「個人として尊重される」と言う規定です。

自民党が「個人」を「人」にかえた理由は知りません。深慮遠望があるのか、単に個人主義と言う言葉が嫌いなのかはしりません。自民党内で言えば、自民党執行部に反する考えの人は尊重しないと言うことにつながる考えかなと想像します。

いろいろ言ってきました。外部からの全ての評価に関係なしにその人を尊重すべきだと言う「個人」として尊重と言う規定を、決して「人」として尊重と変えてはいけません。


私は、憲法案を発表した自民党を尊敬しますが、改正案13条の前半だけでも、自民党
否定します。人権の最も大事な規定であり、民主主義の最も大事な規定と思うからです。