「あめあめふれふれ」~学校制度

♪♪ あめあめふれふれ  母さんがじゃのめでお迎え  うれしいな 

                ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

                              (あめふり)

家の中から孫(一歳3か月)と降る雨を見るとき、私がよく歌う歌が、これです。なんと心弾む歌でしょう。特に、ピッチピッチ チャップチャップ ランランランという言葉は、躍動しています。小さい子供たちの、母親に迎えられる喜びがあふれる歌です。また、幼稚園とか小学校の緊張からの解放感もあるでしょう。

 

私自身が母親のお迎えを受けた記憶はありません。あったのかもしれませんし、なかったのかもしれません。極貧だった我が家です。日雇い労務者の母の仕事は土方でして、雨の日は休みのため、お迎えに来てくれたかもしれません。 「あったのか、母ちゃん?」私がお墓に入ったら聞いてみましょう。

 

現代では、車でお迎えというのが多いようです。働いている母親が多い現在、迎えに行くということは少ないのかもしれません。

 

「あめあめふれふれ」は、この前の2回の洪水も思い起こさせます。ひどい被害でした。私は雨を見ているのが好きです。しかし、雨もあんまり降られては困ります。

f:id:A0153:20191104071444j:plain

 

道路が切れています。それを補修しています。ここは相馬市街に入るところです。この下流域が洪水となりました。

またここに上水道の導管が埋設されてまして、これが破壊され、断水が起きました。

f:id:A0153:20191104072502j:plain

川の反対側から見た写真です。右の遠くに見えるのが上の写真の所です。この手前も一部決壊していてビニールシートが懸けられています。

f:id:A0153:20191104074118j:plain

上の写真から500mほど下流の 橋です。流されてきた大木が激突して橋の一部が落ちてしまいました。

f:id:A0153:20191106070039j:plain

上の壊れた橋から3キロほど下流です。堤防が30m位崩壊して左側の住宅地に濁流が流れ込みました。この辺では床上浸水がいっぱい出ました。
 

 洪水の話を離れて「あめふり」に戻ります。

小学校で習った「あめふり」の歌の2番~4番(本当は3番~5番です)は、歌の情景が次のように続きます。

  あらあらあの子はずぶぬれだ 柳のねかたで泣いている。ゝゝ              

  母さん僕のを貸しましょか 君君このかさ さしたまえ。ゝゝ                  

  僕ならいいんだ母さんの  大きな蛇の目にはいいってく。ゝゝ

小学校の私がどう思ったかは覚えてません。

皆さんはどのような印象を持ちますか。現在私は、この歌にこんな想いを持ちます。

 

この子は優しい子だなあということです。濡れた同級生か下級生に自分の傘を貸す優しさ。私の孫もこんな優しい人に育ってほしいと思います。

 

さて現代の小さい子たちは、濡れてる子を見て可哀そうと思うのでしょうか、それともそれぞれの事情なんだから、濡れるのもやむをえないと思うのでしょうか。「かわいそ」だけど、他人にかかわるな、という感じでしょうか。

ブログ知人のyonnbabaさんがブログで、7歳の子供たちの優しさを紹介していました。

7歳の優しさを見習いたい - よんばば つれづれ

yonnbabaさんがおっしゃる通り、7歳くらいの子は、困っている他人をかわいそうに思い、助けてやりたいと思うのだと思います。人間は本来、優しいんだと思います。いや正確には、本来優しい面があるということでしょう。そうでない面もあるでしょうから。

 

こんな優しい子供が大人になった時、他人を思うやさしさって、かなり失っているんじゃないかと思うんです。

 

萩生田文科大臣の「身の丈にあわせて頑張ってくれればいい」という発言には、他人に対するやさしさを感じません。あとで謝罪し撤回しましたが、彼の本心でしょう。いや実は、現在の多くの日本国民の本心でしょう。

 

私は3年前に、「日本国民がほかの国民に比べて、他人の貧困について優しくないという情報で悲しくなった」というブログを書いたことがあります。現在でもこの時の想いは変わってません。

 

a0153.hatenablog.com

 

 「きみきみ このかさ さしたまえ」の子供は、どこに行ったのでしょうか。なぜ困った他人に傘をかすやさしい気持ちを持っていた子供が、「困っているのは己が悪いからだ、自己責任だ」という大人になるのでしょうか?

 

まず思いつくのは、現在の学校制度の問題です。つまり優秀な児童・生徒を発達段階のどこかで競争させて選別して、エリートをエリート校の中で育てる学校制度です。

 

 

皆もう忘れていると思いますが、戦後の出発時点での発想は全く違いました。

戦後の公立高校は、戦前の中学校・女学校の持っていた、エリートを育てるという性格を厳しく強く否定しました。(昭和24年 文部省「新制中学・高校望ましい運営の指針(新制高校は、・・・選ばれた少数の者のためのものでない・・・・。単にいわゆる知的優秀者の必要を満たすものであってはならない」)

 

ですから、新制中学は勿論ですが、新制高校(戦後の中高をこう呼びました)だって、男女共学・小学区制・総合制が原則でした。小学区制とは、ある地域の生徒はすべて同じ高校に行くことで、総合制は、一つの学校に普通科も職業科も一緒に置くという仕組みです。

 

 

これは、普・商・工・農という高校間格差、普通科高校の進学校~底辺校という格差を原則認めない考えで、戦後の学校制度の根本方針でした。エリートを他の大勢の生徒の中で育てるという考えでした。エリートつまり学力優秀者もスポーツ優秀者も芸術優秀者も高校までは、皆と一緒に育てるという考えでした。

 

私は、この考えに賛成します。高校までは、皆一緒が良いと思います。エリートをエリート校で育てるのはよくないと思います。学力優秀な子がすべてに勝るわけではありません。たかが学力です。いろんな長短所がある児童生徒の中で育てるべきだと思っています。それでこそ、学力エリートは、己の足りない部分に気づき、他人にやさしい気持ちを持ち、社会に役立つ人になるんだと思います。(スポーツエリートも芸術エリートも同じと思います)

 

しかし、そのような学校制度は、戦後の政治でどんどん壊されていきました。その結果、現在のような、競争による学校間格差を当然とする学校制度となりました。

 

一般的には学力優秀者が優位な職業に就ける社会で、学校間格差が当然となれば、学力エリート校に入る競争が激しくなります。

 

そしてエリート校を出た人間は、「自分は、競争に勝って今の地位を得た。負けたやつらが貧乏なのは当然。貧困者の面倒を、自分があるいは社会全体で見るなんておかしい。」と考えるようになります。非エリート校出身者は、「あいつら優秀なんだから仕方ないな。自分は競争で負けたので、貧乏なのはやむを得ないな」と考えます。

 

 

現在の学校制度全体は、このような格差容認を生徒に植え付ける役割を果たしていると思います。その結果、「勝てば官軍、勝者は何してもいい」という意識になります。(安倍政権の面々の意識はこれじゃないか)またそれは、自己責任を当然と考える社会を作ります。

 

どうして学校制度全体が学力偏重の競争装置(別に言えば選別装置)になったのでしょうか。いろんな要因があると思います。私もわかりません。しかし、この学校制度の背景には、自由競争絶対主義(「自由競争は、絶対的価値があるし、その結果も絶対的価値がある」という考え)=冷戦終結後は、これが世界に拡散した(グローバリズム)ということがあると思っています。

 

自由競争に意味がないとは思いません。原則、自由競争は良いことです。自由競争で発展もしてきました。しかし競争の結果が固定化されてはいけません。自由競争の絶対視も間違いです

 

たかが学力じゃないですか。国家を運営する官僚はエリートです。しかし、このエリートは、たかが学力(学力には諸能力=記憶・論理・分析・関連・推理力等々が反映してるとも思いますけど)が強いだけじゃないですか。彼等は、身体能力とか友達を作る力とか正義感とか他を思う力とか、危機管理能力、指導力とかは普通の人より劣っているかもしれません。

 

固定化もまずいです。親が勝者なら子も有利というのはよくないです。それでは自由な競争になっていません。自由競争の前提には、公正さというのがあります。公正でなければ本来の自由競争ではありません。今回の大学入試英語民間試験導入は、この前提が崩れています。現状では、親の貧富の差によって受験生に差がつき、公正な自由競争にはなっていないと思います。(身の丈発言は、公正な自由競争を否定している発言です)

 

いや、英語民間試験に限らず、学校制度全体が公正さを欠いています。(東大生の多くが富裕家庭出身というのがその典型です。)

 

この30年日本は停滞してきました。少子化と並んで停滞の大きな理由に、この公正な自由競争ができていないということ、競争の結果の固定化ということがあると思います。

 

この二つは、エリート・非エリートを問わず、全国民が本来持っている、「皆のために役立つある才能や皆のために活躍できる能力」を埋もらせていると思います。

 

 

家が貧しいためどこかの段階で進学をあきらめた 人の持つ才能・能力は埋もれます。

他人のことを考えない=自分の利益しか考えないエリートは、本来社会のために役立てるべき高い能力を、己のためにしか使ってないわけですので、社会全体の大きな損失になっています。

 

どうしたらよいでしょう。

もはや学校間格差を前提とする学校制度は如何ともしがたいでしょう。エリートがエリート校で育てられるのを解消するのは難しいでしょう。(エリートをエリート集団で育てるという仕組みは、日本の長い歴史の中で当たり前のことだったと思います。戦後の出発時だけが違ってました。その理想は空想として消されました

 

やむをえません。エリート校の教育が、皆のために役立つ人間になるようにという視点を失わないように願っています。そんな学校では、少なくとも学力でしか優れていないということは生徒に自覚させるべきでしょう。「たかが学力」を自覚させるべきです。

 

入試の公正さは出来るだけ何とか確保したいものです。(例えば、お金で諦めないよう、国立大授業料無料化はどうでしょう。現在国大生は約50万人弱のようです。授業料を年100万とすると、たった5000億円でできます。国私大を問わず返還不要の奨学金制度も大いに拡大したらいいでしょう)

 

自由競争の結果の固定化を打破する一つの方法は、相続税の強化です。

 

ある個人がこの自由競争の結果得た冨は、正当なものです。その富で人生を楽しむのは当然の権利です。しかし、その富を子供や孫が受け継ぐのは、正当とは言えません。富裕者の子や孫は、自由に競争した結果、その富を得ているわけではないからです。競争の結果でもないし、何の努力もしていません。ただ富のもとに偶然生まれただけだからです

 

自由競争絶対主義の原則から言えば、相続税100%の方が筋が通るように思います。ガラガラポンですよ。「ご破算で願いましては」、です。それが公正な自由競争というものです。

 

前の拙ブログ「消費税減税を実現しよう」で計算した、相続税100%にした場合の増収分は、13.5兆円でした。このお金は、すべての教育を無償化してもおつりが来るはずです。これでこそ自由競争絶対主義が実現します。( まあ、100%といっても、遺族には控除分が残ります(基礎控除3000万+相続人一人につき600万、6億以上の相続は、これプラス7000万))

 

というわけで(笑)

11月9日、隣町のスタンデイングに行ってきました。参加者は11名でした。

f:id:A0153:20191109101046j:plain

いくら見ても雲が一つもありませんでした。すごい空でした。美しい空でした。雲外蒼天ではなく、全天蒼天。秋晴れ。

勿論私のプラカードは、

f:id:A0153:20190919130717j:plain

でした。