おじさんたちはどう死んだんだろう?

今日は、地元相馬のスタンデイングに行ってきました。わが夫婦、同級生夫婦と、も一人の合計5名でした。普段に比べて少ないです。

小学1年生たちが、看板を読んでます。ふりがなを振ってますので読めます。

今日は、こんなチラシをもらいました。相馬市9条の会は、現在学習会が中心です。かつては、月2回A4版4ページのニュースを発行してました。現在は高齢化と資金不足でニュースを発行するのが困難です。昨年は、2回しか発行できませんでした。

 

9条の会のは呼びかけ人は、井上ひさし加藤周一、鶴見俊介、奥平康弘、梅原猛大江健三郎等そうそうたるメンバーと思いますが、殆ど故人となりました。2005年の有明スタジアムでの集まりの熱気が懐かしいです。あの頃は私も現役でした。バスで日帰りをしました。私も若かった。

 

さて、スタンデイングの後、お墓参りに行きました。お彼岸です。我が家のお墓は、昨年3月の震度6の地震で、めちゃくちゃです。石屋さんに修理を頼んでいるですが、いつになるかわからない状態です。

 

墓碑銘には、戦死者が二人います。昭和23年、シベリアの〇〇病院で死亡した叔父と、昭和20年8月12日、○○島で戦死した叔父です。

 

我が家の古い墓石の裏に、○○が具体的に書かれていましたが、お墓を改装した際、消してしまいました。前者はシベリア抑留の死亡、後者は、昭和20年8月8日参戦したソ連との戦闘で死亡したのだと想像しますが、詳しいことは分かりません。祖父や父に聞いとけばよかった。あの当時は興味がなかった。

 

我が家は相馬で中規模の地主だったそうですが、みかんだかリンゴだかの経営に失敗し、北海道の釧路付近に入植し、さらに南樺太に入植した農家です。敗戦で相馬に戻ってきました。

 

樺太からの一家の引揚は困難だったでしょう。その辺の話を聞いとけばよかったと、今つくづく思います。生き残ったおじさんもおばさんも6名もいたのに。第一祖父も長男の父もいた。

 

祖父は、1894年(明治27年)生まれ、日露戦争の時10歳前後、樺太からの引揚時には

50歳前後です。

 

青年時、近衛兵だったというのが祖父の自慢でした。私が小学校高学年で、軍艦の模型を作って遊んでいると、目を細め「日本はロシアに勝ったんだぞ」と言って、当時の絵ハガキを見せてくれたものです。よく覚えているのは、敵艦スワロフ撃沈の絵ハガキです。日本海海戦のものです。

 

彼に太平洋戦争の当時の気持ちや引き上げの時の気持ちを聞いておけばよかったとつくづく思います。戦後の気持ちも。実に残念です。

 

父は、1914年(大正3年)生まれです。敗戦時31歳です。ところが戦争に行っていません。どうして行かなかったのか、樺太では徴兵がなかったのでしょうか?何か軍関係の仕事をしてたのでしょうか?聞いておけばよかったと切に思います。痛切に思います。

 

私達は、戦前戦後の日本の歴史を背負っています。

 

 

家永三郎の渾身の書「太平洋戦争」(1967年、岩波書店

のあとがきで彼は言っています。

日本国憲法の平和主義・民主主義は、本書で詳述したごとき「戦争の惨禍」を再び繰り返すまいという決意によってのみ支えられてきたのであり、「戦争の惨禍」を体験してない戦後世代が年ごとに増加するにつれ、憲法の改悪ないし第三次世界大戦の悲劇の再現を阻止する必要の自覚は弱体化の傾向を免れまい。・・・(略)太平洋戦争の真相を科学的に認識し、その成果を人々の共同財産たらしめ、再び悲劇の到来を防止するために役立たしめることによってのみ、戦火の中で非業の死を遂げた何千万の犠牲者に対し、初めて生き残った者としての償いの一端を果たすことになるのではあるまいか」

(下線部、A0153)

 

私は、戦後生まれではありますが、(生き残ったものではありませんが)家永の気持ちを微力ながら受け継ぎたいと思っています。