人間としての部分でのつながり

この言葉を、12月8日福島県9条の会の憲法学者樋口陽一氏の講演会で知りました。(拙ブログ12月8日)

この言葉は、井上ひさしの言葉です。
1986年仙台市東北電力ホールで、原発を推進している東北電力社員を前に、「原発はやらせ。電力は足りている」と、反原発をいい、「人間としての部分と人間としての部分で手を組んで行こう」と訴えたそうです。(伝聞ですいません)

原発ホワイトアウト」の感想書きに飽きて、いや本当は、井上ひさしが恋しくなって「兄おとうと」という戯曲を読みました。

兄は、大正デモクラシーの旗手吉野作造、弟は、天皇制国家の高級官僚(やがて大臣になる)吉野信次。どちらも東京帝大銀時計組という秀才。

この戯曲では、お互い尊敬しながら、民本主義の思想家と天皇制国家の官僚の思想はぶつかって行きます。

実際にぶつかるのは、当然でしょうね。

この二人の人間としての部分と人間としての部分でのつながりは、戯曲では、私の見る限りでは、寝言の中にしか表れません。


翻って現在。

原発推進原発ムラの人々と反原発の人々の、人間としての部分と人間としての部分でのつながりというのは、どこにあるのでしょうか。

そんなことを考えながら山の中の散歩に行ってきました。