相馬野馬追・オウム死刑囚の刑執行に思う・貫井徳郎「乱反射」

7月28日から30日は、相馬地方あげての相馬野馬追祭りである。

本日28日朝8時、元の家老屋敷に泊まった総大将をお迎えに来た騎馬武者たちが、行列を作って出陣する様子である。その数20騎以上。野馬追祭り本番の始まりである。この後騎馬行列は市内を巡行し、南相馬へ向かう。明日は南相馬で神旗争奪戦などが行われる。明後日は小高で野馬懸け。

今日はあいにくの雨である。騎馬武者や観光客にとってはあいにくである。しかし私にとっては「待ってました」の雨である。もう10日以上軽トラでの畑への行きかえり、小川の水を汲んで畑に散水している。ポリタンク3缶分である。故に、雨降ってほしいと切に願っていたのである。これまたしかし、この台風が西日本の被災地にさらなる被害をもたらすかもしれないと思うと、無条件に「待ってました」とは、言えない。さらなる被害のないことを祈る。いやはや難しいものである。

総大将相馬行胤氏である。相馬〇胤という名前が示すように、旧相馬藩の藩主の子孫である。この相双地方(相馬・双葉地方)は、鎌倉時代以来相馬氏がずっと支配してきた。どの地方でも領主が代わっている。代わらないのは、相馬と島津(薩摩)くらいだそうだ。


一昨日オウム真理教の残りの死刑囚へ刑の執行が行われた。私は、これを残念だと思っている。死刑執行を、政府の無責任なかつ無思慮な行為と思っている。意識してなのかどうかはわからないが、政府の愚民化政策の一環と思う。

オウム事件についての私の関心は、まじめで普通と言われてきた青年たちがどうして浅原彰晃のペテンに引っかかったかということである。なぜ普通人の彼らが無差別殺人も肯定することになったかということにある。


今後こんなことが起きないように事件の全貌を解明するのが社会全体のやるべきことと思うので、政権は、死刑は執行せず、全貌解明に努力すべきと思うのである。繰り返すが死刑執行は、意識的かどうかは不明だが、政権による国民の愚民化政策の一環と思う。「物事は単純だ。考えるな。政府に任せておけばいい。」

尚私は死刑制度そのものに反対である。最高刑は終身刑でよいと思っている。

個人や集団あるいは国家いずれがやっても「殺人は悪い」ということ、冤罪の可能性があること、犯罪抑止力になってないこと、死刑は国家(社会全体)が人権を軽視する方向であること、死刑は「目には目を、歯には歯を」という復讐の延長上の考えであり、復讐は社会全体の幸福にはつながらないこと、などがその理由である。


一昨日から昨日にかけて私は、貫井徳郎の小説「乱反射」を読んだ。テーマは、幼児の事故死の原因・誘因・背景まで探ると、事故死ではなく、多くの人による殺人ではないかという問いかけである。

幼児の死に関係する人々の行為は、次のようなものである。

(高齢者)腰が痛いため犬の糞を始末しない
(公務員)市役所職員が子供の心ない言葉で糞の始末という仕事を途中放棄
(造園業従業員)樹木医潔癖症になり、糞のある木に近づけない
(大学生)軽度の患者が夜間診療は「すいていていい」と考え利用、それを他人に勧める。
(医師)激務を嫌いアルバイト勤務をしていて、積極的に仕事はしない。医療過誤を恐れる。
(余裕のある主婦層)街路樹伐採反対運動の人たちが間違った思い込みをする
若い女性)車庫に車を入れようとした人が焦って運転放棄
(運転手たち)渋滞にイライラしてクラクションを鳴らす


これらの人々は、
>己のちょッとした都合を押し通し、それが起こした波紋の責任など、取ろうとしない<、>自分だけがよければいいと考え、些細なモラル違反を犯した人たち<である。これらの全体集合が幼児を殺したのである。
(>  <は、小説から引用)

「自分の都合優先」「自分だけがよければ」「些細なモラル違反」は、自分も含めて多くの人の行動に当てはまるのではないか。これらをまとめれば無思慮と言ってもよい。この無思慮が今日の日本の多くの問題の背景にあるのじゃないか、そんなことを考えさせられた小説である。自分や他人の行為の及ぼす影響というものを深く考えねばならないと思わされた。現代社会の一面を鋭く突いた傑作と思う。

また私はこの小説で、原発事故も想起させられた。
原発事故は、大小軽重の差はあれ、多くの大人の作為・不作為の結果起こったものである。原発事故の結果、自殺者を含め原発事故関連死は少なくとも1000名以上である。彼らの死に、多くの人の作為・不作為がかかわっていると私は考える。

快適さ・便利さを求めて多くの電気を使う人々。原発安全神話を信じた人々。安全神話を作り出した電力会社・原子力利益追求村の人々。原発付随利益を欲しがった地元。原発推進自民党民主党を支持した人々。政府に判断をゆだねた裁判官。・・・。それぞれが大小軽重の差はあるが、原発事故の原因・誘因・背景となっている。


ある出来事の原因・誘因・背景まで考えるのは面倒である。自分の行為の影響を考えるのも面倒かつ難しい。時間もかかる。分からないことも多い。個人の手に余ることである。それでもそこまで考えなければ、ほんとの解決や良い社会を造れないと思う。だからそれを専門とする学者・マスコミ・政府・自治体には、本気で取り組んでもらいたい。国民ひとり一人も、極めて不十分だろうけど、そしてとても難しいだろうけど、考えるべきと思う。


オウム事件の原因・誘因・背景を知らなければ同じような大量殺りくが起きる可能性を断てない。(原発事故も同様)その意味で今回の大量処刑は、政府の責任を全うしていないと言える。また死刑執行は、政府のの怠慢を示すだけでなく、国民を、ある出来事の原因や誘因やその背景を考えない国民(愚民)にするためのもののように見える。「考えるな、人を殺せば罰として殺される、それだけ知ってればいい」